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◆対談者
長谷川先生の城郭幾何学は一般に人々とり
難し過ぎるのではないでしょうか?
◆長谷川
別に普段の城郭見学においても城郭幾何学
については資料の付録として付けている様
な状態で私は押し付けはしていません。私
の城郭見学会とは素朴で真面目な世界です。
◆質問者
山梨県の甲府城に幾何学縄張が有りますか?
◆長谷川
設計された物全てに設計設定腺あると思い
ます。道路標示の「止まれ」にも元々は此
の様な設計線が存在しましたが風雪で消え
てしまったのです城郭幾何学城郭ビイスタ
は日頃城に興味を示しておられる男性陣よ
りも「折り紙」や「糸取り」に親しんだ事
のある女性陣の方が幾何学と割り切る事に
よりやはり糸辺の分野は女性が理解力高い
と思います。既に先輩や読書により城縄張
の観点を既成知識として身に着けた女性陣
の方がむしろ「城郭幾何学論/ビイスタ工法」
に自然に素直に学べると思います。人間は
一度難しい「ムズイ」と思った瞬間に興味
や学習能力「ヤル気」がストップ停止して
しまうものです。城郭幾何学も気楽に取り
組めば大きな学問的進捗を見せると私は思
います。地域振興ではなく生涯学習の意味
において私はそう常に思っておりますが?
▼甲斐新府城の桝形と馬出を幾何学分析する女性
◆長谷川
山梨県甲府城の石垣腺には優れた整然とした
▼幾何学が多用されていると私は思います。
▼特に天守台石垣は繊細な放射線から成り立っ。
甲府城の古絵図 『楽只堂年禄』第173巻を分析する
様々な場所に放射状測量の痕跡を読み取る事が可能です。
甲府城 以下ウイッキペデイアより引用
築城主・築城年代[編集]
「家康は甲府・躑躅ヶ崎館を甲斐におけ
る支配的拠点としていたが、1583年
(天正11年)には家臣の平岩親吉に命じ
て一条小山の縄張りを行い、甲府城の築
城を企図したと言われる。 甲府城の築城
主を徳川家康とする説は古くからあり、
江戸後期に編纂された『甲斐国志』では
築城主を家康・年代を天正13年(1585年)
としている。昭和戦後期には1969年(昭和
44年)に『甲府城総合調査報告書』が築城
主を家康・年代を天正11年としている。
築城主を家康・年代を天正10年・13年とす
る説の根拠となる史料には年未詳徳川家奉行人
連署状写、享保年間の『甲斐国歴代譜』、
「愛宕山宝蔵院」『甲斐国志』仏寺部があるが
、いずれも家康による築城を確定する史料で
なく、この時期に甲斐国内において大規模な
動員がかけられた形跡もないことが指摘される
[3]。 天正11年築城説の根拠となる年未詳正月
27日付平岩親吉宛書状において、家康は家臣の
平岩に対して一条小山における築城の準備を命
じており、「石垣積」の技術を持つ職人衆の派遣
を行っている。石垣積は「穴太積」とも呼ばれる
西国系の技術で、織田信長が天正4年(1576年)
の安土城築城において本格的に使用し、豊臣秀吉
に引き継がれたという。戦国期の甲斐や武田領国、
家康の領した東国五カ国には存在せず、甲府城に
おいて初めて用いられている。現在の甲府城の石垣
遺構は技術的な中断の形跡が無く同一の技術水準に
よるものであることが指摘され、豊臣大名時代の
築造と考えられている。 これらの石垣積の導入
時期や甲斐・家康を巡る政治情勢から、平山優は
甲府城築城に関わる年未詳家康文書の年代比定は
天正11年ではなく、小田原合戦・家康の関東転封
をひかえた天正17年頃である可能性が指摘を指摘し
[4]、家康は甲府城の築城を企図していたが実現さ
れず、甲府城の築城は豊臣大名時代になされたと
評価している[5]。」