城郭ビイスタ論 上文字クリック
◆若桜鬼ヶ城 (わかさおにがじょう)のビイスタ工法
◆長谷川
織豊系城郭若桜鬼ヶ城 勉強したくて髙田徹
氏に城郭図面の使用許可を取りました。氏
の図面を家の隅において何回も見る習癖が
私には存在しいます。彼の図面が非常に高
い学術性を備えてると言えると言う事です。
髙田氏から貰った書籍は、折節に読みます。
図書館に行きこの図書は格別に素晴しい
と感じる書籍は髙田徹先生の著者名が見え
て、やはりと、好著だと感じる昨今です。
◆長谷川
●若桜鬼ヶ城
は織豊系城郭の縄張形態を色濃く示す城郭
遺跡であり、この城もビイスタ工法を駆使
した縄張が存在するのか?向学心学習趣旨
として髙田氏の図面から城郭ビイスタ検討
を進めたいと思い宜しく御理解を願います。
高田図は優れているから城郭幾何学論に確
実に対応できる優れた図面とも言えます。
◆長谷川
主郭天守台自体の形状が正方形でない事
図面の前面が狭く作られていて当時の計測
地点からは各所の郭形状の基本となる縄張
位置も決められたと私は推測しております。
◆長谷川
各部横矢や虎口「城門」桝形位置等を
決定する当時の測量起点も読み取れる。
◆長谷川
虎口や通路「城道」の設定や天守左の屏風折状
縄張も見事な幾何学測量線を読み取る事が可能
まさに国指定に相応しい素晴しい縄張技術の城
これは、髙田氏の図面が正確で学術性が高いと
言えます。やはり「韓日代表的縄張研究家」と
海外からも髙田氏は評価されているだけの事は
あります。
◆長谷川
観察視点を城郭図面の左右から検討して
みましょう。これもまた左右からも素晴
しいビイスタ「展望的設計」「測量的
設計」がなされている事が読み取れます。
◆長谷川
城郭の中芯とも言える天守隅より周囲へと
放射状に縄張設計した様子や手前青線扇型
縄張も存在するようです。これは城郭を
美しく立派に見せる為の光背効果つまりは
威信建造物とする目的と私は推測致します。
◆長谷川
様々な場所や何処から当城を見てもビイスタ展望
やパノラマ状展望が存在します。もしもこの城が
元和一国一城制度で当城が廃止さなければ天守や
や見事な石垣幾の何学線が見事に栄えた城郭です。
◆対談者
城郭遺跡は複雑な幾何学設計で出来ており
複雑な遺構を安易簡潔な論説で講演して人
を数多く集めて概念的講演で解説をしても
私は、全く意味がないと思います。それは
薔薇の漢字検定で、ばらと書くようなモノ。
簡単解説を何十年聞く事は果たして?良い
か?大衆心理を獲得しても地道な学門研究
の進捗をみない保守的世界では困ると思う。
薔薇の文字を難しいと感じて何年も「ばら」
のママの表記をする人は利便、適宜と言う
現代の合理主義や簡便主義には最適合です
がコツコツと少しずつ練習習得して行く姿
こそが城郭見学道の哲学「初心貫徹」かと
思います。もちろん人間社会は城や城跡に
対する関わりや対峙姿勢や価値観は100人
100通りと言えますが、お城見学/遺跡見学
の根幹はやはり薔薇の漢字の習得と同じ!
◆長谷川
城郭を簡単に解説し、より多くの大衆を講演
へ集客し冊子を販売する行為は学門より催事
や町興しとして意義ある事で町を活性化させ
るイベントの世界で、社会的には良い事です。
地域振興観光促進の観点から見れば正に王道。
◆ユークリッド幾何学の逸話紹介
(引用)エウクレイデス(ユークリッド)の名は、
幾何学とは切っても切れない関係にある。これ
は、彼が歴史を通じて最も有名な幾何学の本を
著したからだ。『幾何学原本』は2000年に
わたって唯一の幾何学の教科書であり、その基
本的な規則はいまも学校で教えられている。エ
ウクレイデスはまた、エジプト王プトレマイオ
ス1世を叱ったことでも有名だ。幾何学を学ぶ
簡単な道はないかと王に尋ねられて、「幾何学
に王道はございません」と答えたとつたえられ
ている。<スレンドラ・ヴィーマ/安原和見訳
『ゆかいな理科年表』2008 ちくま学芸文庫
p.30>より引用
若桜鬼ヶ城 (わかさおにがじょう)
ウイッキペデイアより引用
因幡三名城(この他に鳥取城、鹿野城)のひと
つに数えられる名城である。 播磨・但馬両国に
通じる街道を扼する標高452メートル(比高252
メートル)の鶴尾山山頂部から尾根部分に曲輪
群を設けている。主に木下・山崎氏時代の主要
部と国人・矢部氏時代の古城部に分けられ、中
世城郭と石垣で作られた近世城郭の両方の遺構
が残っている。また、主要部の石垣には元和3年
(1617年)の破城の形跡が見られ各所で崩れた
石垣が確認される。 鳥取県教育委員会が平成10年
(1998年)から15年(2003年)にかけて実施し
た県内の城館分布調査で全国的にも類を見ない
遺構が発見され、国の史跡級の城跡であることが
確認された。国の史跡への指定は土地の権利など
の問題で以前から難航していたが、平成20年
(2008年)3月28日に実現した。 2017年(平成
29年)4月6日、続日本100名城(168番)に選定
された。
歴史[編集]
正治2年(1200年)頃、三河国より入封した矢部
暉種によって築城された。鎌倉から室町時代、戦
国時代末期まで矢部氏の居城となるが、天正3年
(1575年)6月に山中幸盛の謀略によって城主の
矢部某が捕らえられて尼子再興軍の手に落ちる。
同年、吉川元春の攻撃を受けると山中幸盛らは
抗戦するが、翌年城を捨てて撤退した。 羽柴秀
吉率いる織田軍が因幡国に侵入するとその拠点
となり、天正9年(1581年)の鳥取城攻めの後、
2万石を領して木下重堅が入城した。 慶長5年
(1600年)の関ヶ原の戦いで木下重堅は西軍に
属して改易となり、山崎家盛が3万石で入封して
居城となった。 家盛の子、山崎家治は元和3年
(1617年)に備中国成羽3万石に移封され、因幡
一国は池田氏の所領となり、元和3年(1617年)
の一国一城令によって廃城となった