「自分で決める」元村有希子さん
『毎日新聞』3月29日付 コラム「発信箱」より
《 医師に人工呼吸器をはずされ、末期患者7人が死亡した。当初は「安楽死」と報道され医師は「尊厳死」と説明した。病院は「延命治療の中止」と説明した。死という事実にこれだけの呼び名がつくことに戸惑う。
安楽死も尊厳死も日本では法制化されていない。だから明確な定義はない。判例によるとその死が許容されるために欠かせないのは「患者の意思」だ。
医師は今回、一人については本人の意思を確認したという。他は「家族の同意を得た」との記述があるだけ。患者が本当に尊厳を保ちつつ死んでいったのか、確かめることは難しい。
とはいえ、医師の行為を「非道」と批判するだけでは本質を見失う。医療の進歩は、昔ながらの自然なみとりの場を一変させた。「無駄な延命はイヤ」と意思表示しない限り、呼吸困難で意識不明になれば人工呼吸器は装着されるだろう。命はつながり、病気は残る。苦しみは続く。
「慈悲死」という死もある。家族や医師が本人の苦しみを考慮して決める死をこう呼ぶ。今回のケースはこれに近いかも知れない。やさしく見えて、本人の意思が介在する余地はない。
2年前、ホスピスの取材で知り合った女性は、延命治療を拒む書面を医師に預け、痛み止めを上手に使って、告げられた「余命」より1年以上長く生きた。葬儀で着るドレスも遺影も聖歌も自分で決め形見分けも済ませて旅立った。
自分の最後は自分で決める。当たり前のことだが難しい。今を生き、死んでいく私たち全員の宿題だ。 》
考え込んでしまいます。安楽死、尊厳死、慈悲死(初めて聞きます)、いずれにしても、医師を信頼できるということが前提だろう。医師の心ない言動、ごう慢、ドクハラなど一度も経験したことのない人はいないのではないか。
人の死を決定する権限を与えうる医師は多くはないと思う。
『毎日新聞』3月29日付 コラム「発信箱」より
《 医師に人工呼吸器をはずされ、末期患者7人が死亡した。当初は「安楽死」と報道され医師は「尊厳死」と説明した。病院は「延命治療の中止」と説明した。死という事実にこれだけの呼び名がつくことに戸惑う。
安楽死も尊厳死も日本では法制化されていない。だから明確な定義はない。判例によるとその死が許容されるために欠かせないのは「患者の意思」だ。
医師は今回、一人については本人の意思を確認したという。他は「家族の同意を得た」との記述があるだけ。患者が本当に尊厳を保ちつつ死んでいったのか、確かめることは難しい。
とはいえ、医師の行為を「非道」と批判するだけでは本質を見失う。医療の進歩は、昔ながらの自然なみとりの場を一変させた。「無駄な延命はイヤ」と意思表示しない限り、呼吸困難で意識不明になれば人工呼吸器は装着されるだろう。命はつながり、病気は残る。苦しみは続く。
「慈悲死」という死もある。家族や医師が本人の苦しみを考慮して決める死をこう呼ぶ。今回のケースはこれに近いかも知れない。やさしく見えて、本人の意思が介在する余地はない。
2年前、ホスピスの取材で知り合った女性は、延命治療を拒む書面を医師に預け、痛み止めを上手に使って、告げられた「余命」より1年以上長く生きた。葬儀で着るドレスも遺影も聖歌も自分で決め形見分けも済ませて旅立った。
自分の最後は自分で決める。当たり前のことだが難しい。今を生き、死んでいく私たち全員の宿題だ。 》
考え込んでしまいます。安楽死、尊厳死、慈悲死(初めて聞きます)、いずれにしても、医師を信頼できるということが前提だろう。医師の心ない言動、ごう慢、ドクハラなど一度も経験したことのない人はいないのではないか。
人の死を決定する権限を与えうる医師は多くはないと思う。