4日付けブログで、いわき市議会11月定例会に行った一般質問のうち、道徳教育についての質問の冒頭部分での発言を紹介しました。今回はその続編。中央教育審議会が打ち出した道徳教育の正規化についていかのようにただしました。
1 道徳教育について
(1)天皇に身を奉じよと修身教育
伊 藤 この「戦争をできる国づくり」は、憲法解釈の問題だけですすんでいるわけではありません。教育制度でも着々とすすめられてきました。
その一つが道徳教育の問題です。
2000(平成12)年に森喜朗首相の私的諮問機関だった「教育会議国民会議」が「道徳教育」の積極的推進を提言しました。
2002(平成14)年の文部科学省による道徳教育の教材となる「心のノート」の作成と全国一律の児童生徒への配布がされました。
2007(平成19)年の第1次安倍政権の「教育再生会議」は、「徳育」という名称での道徳教育の提言をしました。「点数評価」「国の検定教科書の使用」「専門の教員免許」の問題があるとしてこの時には教科化が見送られましたが、第2次安倍政権の「教育再生実行会議」は、大津のいじめ自殺事件に端を発した第1次提言「いじめ問題等への対応について」で、再び「道徳を新たな枠組みによって教科化し、人間性に深く迫る教育を行う」という道徳の教科化の提言をしました。
その延長線上で、今度の中教審の道徳の教科化の答申が位置づけられてくるのだと思います。
現段階では、あくまで答申の段階ですので、今後どうなるのかは推移を見守ることが必要ではありますが、まず、道徳教育が日本の教育の上でどのような役割を果たしてきたのか、歴史的経過についてまず伺いたいと思います。
最初に戦前に行われていた道徳教育はどのような内容だったのか、伺います。
教育部長 戦前における道徳教育の中心として行われていたものは、「修身科」であると認識しております。
伊 藤 その通り修身科であります。江戸時代から明治になって道徳教育が始まるわけですが、1882(明治15)年に、「幼学鋼要」という修身の書で論語や儒教的倫理観を中心にした道徳の基本が示され、1890(明治23)年に教育勅語が発布されると、修身教育はこの教育勅語の趣旨に基づいて行うと決定され、以後、教育勅語にもとづく道徳教育がすすめられました。
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト」で始まる教育勅語は、親孝行しなさい、兄弟仲良くしなさい、夫婦は調和よく協力しなさい、慎み深く行動しなさい――など、確かに人が生きていく上で大切なことを説いています。
しかし、その本質は次の一文にあったと聞きました。
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ 是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」です。
現代語に訳せば「もし非常事態になったら、公のために勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国、つまり天皇の国ですが、この繁栄に尽くしていくべきです。それが「臣民」、つまり天皇の家臣であるあなた方のつとめであるだけでなく、あなた方の祖先の生き方・伝統を引き継いでいくことになるんですよ――ということになると思います。
一口で言えば、非常事態には天皇のために身を奉じて尽くしなさい。それが日本人としての生き方なんだよ――このように修身教育を通じて、子どもたちに教えこんできたわけです。
ずいぶん昔のことですが、千田夏光さんという作家の講演を聞いたことがあります。明治になり、武装を近代化した日本でしたが、体格の貧弱な日本人に、戦場で人並み外れた力を発揮させることが必要で、いざという際に普段では考えられない力を発揮する、いわゆる火事場の馬鹿力を発揮させるために、「死ぬ気」でやれと教えることが必要だったのだと解説していたことを鮮烈に覚えています。教育勅語はそういう役割を与えられた文書だったということです。
この考え方に沿った修身教育で育った当時の多くの国民は、男性は戦場に動員され、女性や子どもは銃後の守りにつかされ、戦争による犠牲を強いられることになりました。
そして「国体護持」、つまり天皇に政治権力をもたせた国家の体制を守るために、ずるずると引き伸ばされた戦争によって、関東大空襲、この時期にいわき市への空襲もありましたが、本土への相次ぐ空襲があり、この時期にいわき市への空襲もありました、そして沖縄戦、広島と長崎への原爆攻撃で民間人に多数の犠牲を出した上で、終戦を迎えることになりました。
神風特攻隊をはじめ特攻兵器に多くの若者が押しこめられ、戦死を強要されもしました。
こういう悲惨な体験を経てやっと日本は連合国に対してポツダム宣言を受託し、戦争が終わることになりました。
この終戦を受けて、戦後の道徳教育も変わったと聞きます。どのように変わったのでしょうか。
教育部長 戦後、日本の民主化がすすめられる中で、昭和33年の学習指導要領の改定において、学校教育活動全体を通して行う道徳教育を補充・深化・統合するものとして、あらたに「道徳の時間」が設けられております。
伊 藤 戦前の修身教育に対する反省は、大なり、小なりありまして戦後の道徳教育がはじまったのだと思います。
1946(昭和21)年の、「中等学校・青年学校公民教師用書」というものがありますが、「従来の極端に国家主義的な教育方針の結果、道徳の向かふところもまた一律に国家目的の実現といふふうに考えられた」、このように修身教育に問題があったことを認め、1948(昭和23)年6月には、衆参両院で教育勅語等の排除、失効確認に関する決議がされ、教育勅語が失効しました。
1962(昭和37)年の教育白書では、戦後、アメリカ進駐軍によって日本の民主化が意図され、教育内容についても戦争中の軍国主義、極端な国家主義、神道主義的な教育内容が排除されたこと、そして教育課程から、修身、歴史、地理が廃止されて新たに社会科が設けられたことが記述されています。いずれにせよ戦前の道徳教育である修身教育は否定されたわけです。
やがて道徳教育が復活します。今答弁がありましたように1958(昭和33)年に小中学校の教育課程の改定が行われました。教育白書によると「我が国の国家や社会の生活の健全な発展のために基本的なことがらを、生徒が自覚し実践するようになることを目指し、道徳教育を重視して特別に道徳教育の時間を設けた」とされています。
それから戦後の道徳教育が進められ、いまにいたるわけです。そこで現在の道徳教育はどのようにすすめられているのかうかがいます。
教育部長 現在は、学習指導要領に基づき、小中学校において、年間35時間程度の道徳の時間を要として、各教科、特別活動、総合的な学習の時間など学校教育全体を通して行うことになっております。
(2)本市の道徳教育
伊 藤 特別な教科である道徳教育は35時間で、小学校、中学校とも、週1時間程度の時間をとって道徳教育が進められているということになります。
この道徳教育に関し、その目標は、2012年、平成24年6月定例会の答弁で、「人間としてのあり方や生き方についての自覚を深めること、人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を培うこと、この2点を指導の重点」としているという答弁をされていますが、これは変わらないのでしょうか。
教育長 本市におきましては、今年度も同じ目標を掲げ、道徳教育に取り組んでいるところであります。
伊 藤 そして、道徳教育にあたって、その授業内容の準備などはどのように行われているのでしょうか、お伺いします。
教育長 各学校においては、学習指導要領に基づき、児童生徒の実態に則した指導計画を作成して道徳の時間の授業を実施しております。
具体的には、文部科学省作成の「私たちの道徳」や福島県教育委員会発行の「福島道徳教育資料集」、各校で採用している副読本等の読み物資料等を教材として、学級の児童生徒の実態に即して、指導課程を工夫するなどして、授業を実施しております。
伊 藤 今の答弁ですが、教材がいろいろあって、工夫して行っている。その工夫というのは現場の先生方が行っているということだと思うのですが、そういう認識でよろしいのでしょうか。
教育長 特に道徳教育を進めるにあたっては、ある程度基本的な指導課程というものがあります。それは道徳教育が学習指導要領に基づいて、それぞれ内面的な自覚を深めるという狙いがございますので、それに沿った授業の流れというものがあるにはあります。
ただそれも学級の子どもたちの実態によって様々でありますので、それぞれ担任の先生が工夫をなされて授業をされていると認識しております。
(3)道徳教育の教科化と検定教科書
伊 藤 教材を活かしながら、また学習指導要領にもとづいて先生方が、あるいは先生の集団という場合もあるのでしょうが、道徳の授業を独自に準備しているのだということを認識しました。
これはつまり、現在はそれぞれの教員の責任で多様な道徳教育を展開することが可能な状況がある、というように認識して良いのだと思います。
10月21日の中央教育審議会の答申では、この道徳の時間を「特別の教科・道徳」と位置づけて教科化をはかることにしています。今後の道徳教育の目標はどのように答申されているのか、おうかがいします。
教育部長 答申においては、道徳教育も、仮称「特別の教科・道徳」も、その目標を児童生徒の道徳性の育成であることを根本とした上で、各々の役割と関連性を明確にし、理解しやすいものにすることを求めております。
さらに、道徳教育の目標については、簡潔な表現に改めること、発達段階に即した重点の示し方について工夫することなどが求められております。
また、仮称「特別の教科・道徳」の目標については、一人ひとりが生きる上で出会う様々な問題や課題を主体的に解決し、より良く生きていくための資質・能力を培うこととして示すことが求められております。
伊 藤 答申で示している目標、また目標の考え方というのがあるということなんですが、答申の方で出されてきたそういう目標、あるいは目標に対する考え方を受けて、本市の道徳教育の目標が変わるということはあるんでしょうか。
教育長 今回の答申を受けてこれから、おそらく文部科学省の方では学習指導要領の改定も含めて、どうそれを反映させていくかという検討がされていくものと思います。
学校教育というものは、本市の学校教育もそうですが、基本的に学習指導要領に基づいて、その中で、本市の子どもたちの実態に基づいて、何に重点を置くかということで、目標設定を定めていくことになりますので、まだ答申の段階で、本市の道徳教育の目標が変わっていくということは考えにくいことだと考えています。
伊 藤 実際に道徳が教科化されるとして、学習指導要領に示された内容に沿って検討するということで、可能性としては変わる可能性もあると捉えてよろしいんでしょうね。
この答申は「特別の教科・道徳」について、中心になる教材として検定教科書の導入をうたっています。検定教科書が導入されることによって、これまでの道徳教育とどのようなことが変わると考えられるのか、お伺いします。
検定教科書のパイロット版として作成されている「私たちの道徳」
教育部長 これまでも、道徳の時間においては、児童生徒の実態に応じて、様々な資料を活用して実施されていることから、検定教科書が導入されても、指導内容に大きな変化はなく、道徳教育のさらなる充実につながると認識しております。
伊 藤 指導方法に変化はなくても、教科書の内容によっては道徳の内容はかわってくるということはありうるんだろうな、と思います。ま、その中身はまだ良くわからないということにはなるんですけれども。
この検定教科書の問題は、家永教科書裁判などで問われてきました。検定では「何を」「どこまで」記載するかを検定することになるので、公権力が教育内容に関与することが可能になるという問題を含んでいます。そして検定が厳格に行われれば行われるほど、検定の意向に沿う内容に教科書が統一されてきますので、教科書はどれをとっても同じものになってしまいます。
そして学校教育法は、小学校においては34条で、また中学校においては49条で、「文部科学大臣の検定を経た教科用図書又は文部科学省が著作の名義を有する教科用図書を使用しなければならない」、このようにしています。検定教科書の使用が義務付けられているわけです。
つまり検定制度の活用の仕方で、道徳教育の統制が可能になるということだと思います。
2000(平成12)年1月、当時は小渕内閣でしたが、21世紀における日本のあるべき姿を検討することを目的に、内閣総理大臣のもとに設けられた「21世紀日本の構想」懇談会が最終報告書を出しました。そこでは「国家にとって教育とは一つの統治行為だ」としています。「統べる」「治める」と書く統治行為、すなわち高度に政治性を持つ国家行為のことですが、義務教育は「国家はこれを本来の統治行為として自覚し、厳正かつ強力に行わなければならない」ということを歌っているわけであります。
国家すなわち、その時多数をしめる政権が必要だと思う義務教育をすすめよと発破をかけているわけであります。
仮にこうした発想で、正規の教科として、しかも国家がある意図をもって検定教科書を使った道徳教育を行うようになれば、冒頭触れました修身の教育と同じく、子どもたちを誤った方向に導きかねない危険性を持つことになると思います。
今回の道徳の教科化を求める答申の問題点の一つはここにあると思います。
また次の点も問題になります。評価の問題です。
道徳教育の教科化にともなって評価が問題になります。答申では「数値などによる評価を行うことは不適切である」としています。どのような評価となるのでしょうか。
教育部長 答申においては、指導要録に、仮称「特別の教科・道徳」に関しては、その目標に照らして学習状況や成長の様子などを文章で記述するための専用の記録欄を設けるなどの改善を図ること、道徳教育の成果として行動面に表れたものを評価することについては、現行の「行動の記録」を改善し活用することとされておりますが、今後、文部科学省において、さらに専門的な検討が行われるものと考えております。
伊 藤 点数による評価、知識があるかないかを評価するのではなくて、文章ですから総体的に評価するようになっていくんだと思います。
文章による評価であっても、その評価の基準をどうするかということが出てきます。例えばA先生とB先生では評価が違うということになれば、客観的かつ公平な評価ができないことになってまいります。
この評価の基準のたて方によっては、評価を通じて特定の方向に道徳教育の成果を導くことが可能になるということになるとも考えられますので、これもなかなか大変なことになっていくんだろうなと思います。
また、教える側の問題もあります。答申は道徳教育の教科化にあたって、教員のあり方にどのようなことを求めているのか、おうかがいします。
教育部長 答申においては、教員の指導力の向上を掲げており、校長を始めとする管理職の研修を充実させること、全ての教員が、研修を受講し、指導力向上のための支援を得ることができる環境を整備することなどが求められております。
また、各学校の道徳教育推進教師には、力量のあるものをあて、研修計画の充実や授業研究の活性化を図ることで、教員の指導力を向上させるなどの役割を十分に果たせるようにするとともに、複数の学校の道徳教育推進教師への助言等を行う、仮称「道徳教育推進リーダー教師」の設置や、道徳教育を専門に担当する指導主事の配置など教員の指導力向上を推進するためのスタッフの充実も合わせて求められております。
伊 藤 先ほどこれまで道徳教育が教科化されなかった問題の一つに免許の問題があることに触れましたが、この教員免許をどうするのかということも一つの課題になってきます。特に中学校の場合は教科ごとの担任ということになりますので、その点はどうなんでしょうか。
教育長 教員免許の点についても、おそらく国のほうで検討が行われていることだと思いますが、基本的には大学の教育課程の中で道徳教育に関する内容が、今まで以上に含まれることによって指導力向上に資するような、そんなことの改善が行われていくんだろうと思うのですが、まだ現在のところ、教員免許についてはどのようにするかという結論に至っていないと認識しております。
(4)地方教育行政として意見を
伊 藤 仮に教員免許の取得が求められるようになるとすると、この免許を取得する段階も、ある特定の価値観に基づく教育に誘導する機会になることが考えられます。特定の価値観を持った者、あるいはそれを主張する者だけに免許を渡せばいいわけで、ある意味、簡単に一つの方向に道徳教育を導くことができるようになる。そういうきっかけになってしまいます。
検定教科書の問題、評価の問題、そして教員免許の問題と、道徳教育の教科化には、戦前の修身と同様の過ちを犯しかねない危険性が内在されていると言わざるを得ないと思います。
この道徳教育をすすめる場合に、今後、特に留意すべき事項は、本市としてどのようにとらえているのか、おうかがいします。
教育長 本市教育委員会では、従前から学校教育の目標や指導の重点等を示す「未来をつくるいわきの学校教育ABCプラン」の中で、道徳教育における重点事項を掲げ、その充実に努めております。
今後も道徳教育に関する国の動向を注視しながら、いわき市の子どもたちの実態や、育むべき課題を的確に捉え、道徳教育を進めたいと考えております。
また、子どもたちの道徳教育に関する教員の指導力の向上もたいへん重要であることから、引き続き、総合教育センターにおける研修の充実に努めてまいりたいと考えています。
伊 藤 いずれにしましても、今回答申に出された道徳教育の問題というのは様々な問題を含んでくるんだろうというふうに思います。それが悪い方向に転ばない、私としてはそう願うわけです。
今回、私は戦争する国づくり、できる国づくりと一体にすすんでいる道徳教育への懸念という観点からこの問題を取り上げさせていただきましたが、道徳教育の評価の難しさ、正規強化になることによる、例えば中学校では1学年2クラスの学校ですと、全部で6クラス、それが週に1時間ですから週に6時間正規の教科が増えるということになるわけで、正規強化になることによって教員の加配があるのか、ないのか、そういう教育現場での問題ということも出てきますし、様々な懸念を示す方もいらっしゃいます。そういう様々な問題があることを、この道徳教育の教科化にはあることを申し述べて、次の質問に移ります。
【以下、一般質問3に続く】
1 道徳教育について
(1)天皇に身を奉じよと修身教育
伊 藤 この「戦争をできる国づくり」は、憲法解釈の問題だけですすんでいるわけではありません。教育制度でも着々とすすめられてきました。
その一つが道徳教育の問題です。
2000(平成12)年に森喜朗首相の私的諮問機関だった「教育会議国民会議」が「道徳教育」の積極的推進を提言しました。
2002(平成14)年の文部科学省による道徳教育の教材となる「心のノート」の作成と全国一律の児童生徒への配布がされました。
2007(平成19)年の第1次安倍政権の「教育再生会議」は、「徳育」という名称での道徳教育の提言をしました。「点数評価」「国の検定教科書の使用」「専門の教員免許」の問題があるとしてこの時には教科化が見送られましたが、第2次安倍政権の「教育再生実行会議」は、大津のいじめ自殺事件に端を発した第1次提言「いじめ問題等への対応について」で、再び「道徳を新たな枠組みによって教科化し、人間性に深く迫る教育を行う」という道徳の教科化の提言をしました。
その延長線上で、今度の中教審の道徳の教科化の答申が位置づけられてくるのだと思います。
現段階では、あくまで答申の段階ですので、今後どうなるのかは推移を見守ることが必要ではありますが、まず、道徳教育が日本の教育の上でどのような役割を果たしてきたのか、歴史的経過についてまず伺いたいと思います。
最初に戦前に行われていた道徳教育はどのような内容だったのか、伺います。
教育部長 戦前における道徳教育の中心として行われていたものは、「修身科」であると認識しております。
伊 藤 その通り修身科であります。江戸時代から明治になって道徳教育が始まるわけですが、1882(明治15)年に、「幼学鋼要」という修身の書で論語や儒教的倫理観を中心にした道徳の基本が示され、1890(明治23)年に教育勅語が発布されると、修身教育はこの教育勅語の趣旨に基づいて行うと決定され、以後、教育勅語にもとづく道徳教育がすすめられました。
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト」で始まる教育勅語は、親孝行しなさい、兄弟仲良くしなさい、夫婦は調和よく協力しなさい、慎み深く行動しなさい――など、確かに人が生きていく上で大切なことを説いています。
しかし、その本質は次の一文にあったと聞きました。
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ 是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」です。
現代語に訳せば「もし非常事態になったら、公のために勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国、つまり天皇の国ですが、この繁栄に尽くしていくべきです。それが「臣民」、つまり天皇の家臣であるあなた方のつとめであるだけでなく、あなた方の祖先の生き方・伝統を引き継いでいくことになるんですよ――ということになると思います。
一口で言えば、非常事態には天皇のために身を奉じて尽くしなさい。それが日本人としての生き方なんだよ――このように修身教育を通じて、子どもたちに教えこんできたわけです。
ずいぶん昔のことですが、千田夏光さんという作家の講演を聞いたことがあります。明治になり、武装を近代化した日本でしたが、体格の貧弱な日本人に、戦場で人並み外れた力を発揮させることが必要で、いざという際に普段では考えられない力を発揮する、いわゆる火事場の馬鹿力を発揮させるために、「死ぬ気」でやれと教えることが必要だったのだと解説していたことを鮮烈に覚えています。教育勅語はそういう役割を与えられた文書だったということです。
この考え方に沿った修身教育で育った当時の多くの国民は、男性は戦場に動員され、女性や子どもは銃後の守りにつかされ、戦争による犠牲を強いられることになりました。
そして「国体護持」、つまり天皇に政治権力をもたせた国家の体制を守るために、ずるずると引き伸ばされた戦争によって、関東大空襲、この時期にいわき市への空襲もありましたが、本土への相次ぐ空襲があり、この時期にいわき市への空襲もありました、そして沖縄戦、広島と長崎への原爆攻撃で民間人に多数の犠牲を出した上で、終戦を迎えることになりました。
神風特攻隊をはじめ特攻兵器に多くの若者が押しこめられ、戦死を強要されもしました。
こういう悲惨な体験を経てやっと日本は連合国に対してポツダム宣言を受託し、戦争が終わることになりました。
この終戦を受けて、戦後の道徳教育も変わったと聞きます。どのように変わったのでしょうか。
教育部長 戦後、日本の民主化がすすめられる中で、昭和33年の学習指導要領の改定において、学校教育活動全体を通して行う道徳教育を補充・深化・統合するものとして、あらたに「道徳の時間」が設けられております。
伊 藤 戦前の修身教育に対する反省は、大なり、小なりありまして戦後の道徳教育がはじまったのだと思います。
1946(昭和21)年の、「中等学校・青年学校公民教師用書」というものがありますが、「従来の極端に国家主義的な教育方針の結果、道徳の向かふところもまた一律に国家目的の実現といふふうに考えられた」、このように修身教育に問題があったことを認め、1948(昭和23)年6月には、衆参両院で教育勅語等の排除、失効確認に関する決議がされ、教育勅語が失効しました。
1962(昭和37)年の教育白書では、戦後、アメリカ進駐軍によって日本の民主化が意図され、教育内容についても戦争中の軍国主義、極端な国家主義、神道主義的な教育内容が排除されたこと、そして教育課程から、修身、歴史、地理が廃止されて新たに社会科が設けられたことが記述されています。いずれにせよ戦前の道徳教育である修身教育は否定されたわけです。
やがて道徳教育が復活します。今答弁がありましたように1958(昭和33)年に小中学校の教育課程の改定が行われました。教育白書によると「我が国の国家や社会の生活の健全な発展のために基本的なことがらを、生徒が自覚し実践するようになることを目指し、道徳教育を重視して特別に道徳教育の時間を設けた」とされています。
それから戦後の道徳教育が進められ、いまにいたるわけです。そこで現在の道徳教育はどのようにすすめられているのかうかがいます。
教育部長 現在は、学習指導要領に基づき、小中学校において、年間35時間程度の道徳の時間を要として、各教科、特別活動、総合的な学習の時間など学校教育全体を通して行うことになっております。
(2)本市の道徳教育
伊 藤 特別な教科である道徳教育は35時間で、小学校、中学校とも、週1時間程度の時間をとって道徳教育が進められているということになります。
この道徳教育に関し、その目標は、2012年、平成24年6月定例会の答弁で、「人間としてのあり方や生き方についての自覚を深めること、人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を培うこと、この2点を指導の重点」としているという答弁をされていますが、これは変わらないのでしょうか。
教育長 本市におきましては、今年度も同じ目標を掲げ、道徳教育に取り組んでいるところであります。
伊 藤 そして、道徳教育にあたって、その授業内容の準備などはどのように行われているのでしょうか、お伺いします。
教育長 各学校においては、学習指導要領に基づき、児童生徒の実態に則した指導計画を作成して道徳の時間の授業を実施しております。
具体的には、文部科学省作成の「私たちの道徳」や福島県教育委員会発行の「福島道徳教育資料集」、各校で採用している副読本等の読み物資料等を教材として、学級の児童生徒の実態に即して、指導課程を工夫するなどして、授業を実施しております。
伊 藤 今の答弁ですが、教材がいろいろあって、工夫して行っている。その工夫というのは現場の先生方が行っているということだと思うのですが、そういう認識でよろしいのでしょうか。
教育長 特に道徳教育を進めるにあたっては、ある程度基本的な指導課程というものがあります。それは道徳教育が学習指導要領に基づいて、それぞれ内面的な自覚を深めるという狙いがございますので、それに沿った授業の流れというものがあるにはあります。
ただそれも学級の子どもたちの実態によって様々でありますので、それぞれ担任の先生が工夫をなされて授業をされていると認識しております。
(3)道徳教育の教科化と検定教科書
伊 藤 教材を活かしながら、また学習指導要領にもとづいて先生方が、あるいは先生の集団という場合もあるのでしょうが、道徳の授業を独自に準備しているのだということを認識しました。
これはつまり、現在はそれぞれの教員の責任で多様な道徳教育を展開することが可能な状況がある、というように認識して良いのだと思います。
10月21日の中央教育審議会の答申では、この道徳の時間を「特別の教科・道徳」と位置づけて教科化をはかることにしています。今後の道徳教育の目標はどのように答申されているのか、おうかがいします。
教育部長 答申においては、道徳教育も、仮称「特別の教科・道徳」も、その目標を児童生徒の道徳性の育成であることを根本とした上で、各々の役割と関連性を明確にし、理解しやすいものにすることを求めております。
さらに、道徳教育の目標については、簡潔な表現に改めること、発達段階に即した重点の示し方について工夫することなどが求められております。
また、仮称「特別の教科・道徳」の目標については、一人ひとりが生きる上で出会う様々な問題や課題を主体的に解決し、より良く生きていくための資質・能力を培うこととして示すことが求められております。
伊 藤 答申で示している目標、また目標の考え方というのがあるということなんですが、答申の方で出されてきたそういう目標、あるいは目標に対する考え方を受けて、本市の道徳教育の目標が変わるということはあるんでしょうか。
教育長 今回の答申を受けてこれから、おそらく文部科学省の方では学習指導要領の改定も含めて、どうそれを反映させていくかという検討がされていくものと思います。
学校教育というものは、本市の学校教育もそうですが、基本的に学習指導要領に基づいて、その中で、本市の子どもたちの実態に基づいて、何に重点を置くかということで、目標設定を定めていくことになりますので、まだ答申の段階で、本市の道徳教育の目標が変わっていくということは考えにくいことだと考えています。
伊 藤 実際に道徳が教科化されるとして、学習指導要領に示された内容に沿って検討するということで、可能性としては変わる可能性もあると捉えてよろしいんでしょうね。
この答申は「特別の教科・道徳」について、中心になる教材として検定教科書の導入をうたっています。検定教科書が導入されることによって、これまでの道徳教育とどのようなことが変わると考えられるのか、お伺いします。
検定教科書のパイロット版として作成されている「私たちの道徳」
教育部長 これまでも、道徳の時間においては、児童生徒の実態に応じて、様々な資料を活用して実施されていることから、検定教科書が導入されても、指導内容に大きな変化はなく、道徳教育のさらなる充実につながると認識しております。
伊 藤 指導方法に変化はなくても、教科書の内容によっては道徳の内容はかわってくるということはありうるんだろうな、と思います。ま、その中身はまだ良くわからないということにはなるんですけれども。
この検定教科書の問題は、家永教科書裁判などで問われてきました。検定では「何を」「どこまで」記載するかを検定することになるので、公権力が教育内容に関与することが可能になるという問題を含んでいます。そして検定が厳格に行われれば行われるほど、検定の意向に沿う内容に教科書が統一されてきますので、教科書はどれをとっても同じものになってしまいます。
そして学校教育法は、小学校においては34条で、また中学校においては49条で、「文部科学大臣の検定を経た教科用図書又は文部科学省が著作の名義を有する教科用図書を使用しなければならない」、このようにしています。検定教科書の使用が義務付けられているわけです。
つまり検定制度の活用の仕方で、道徳教育の統制が可能になるということだと思います。
2000(平成12)年1月、当時は小渕内閣でしたが、21世紀における日本のあるべき姿を検討することを目的に、内閣総理大臣のもとに設けられた「21世紀日本の構想」懇談会が最終報告書を出しました。そこでは「国家にとって教育とは一つの統治行為だ」としています。「統べる」「治める」と書く統治行為、すなわち高度に政治性を持つ国家行為のことですが、義務教育は「国家はこれを本来の統治行為として自覚し、厳正かつ強力に行わなければならない」ということを歌っているわけであります。
国家すなわち、その時多数をしめる政権が必要だと思う義務教育をすすめよと発破をかけているわけであります。
仮にこうした発想で、正規の教科として、しかも国家がある意図をもって検定教科書を使った道徳教育を行うようになれば、冒頭触れました修身の教育と同じく、子どもたちを誤った方向に導きかねない危険性を持つことになると思います。
今回の道徳の教科化を求める答申の問題点の一つはここにあると思います。
また次の点も問題になります。評価の問題です。
道徳教育の教科化にともなって評価が問題になります。答申では「数値などによる評価を行うことは不適切である」としています。どのような評価となるのでしょうか。
教育部長 答申においては、指導要録に、仮称「特別の教科・道徳」に関しては、その目標に照らして学習状況や成長の様子などを文章で記述するための専用の記録欄を設けるなどの改善を図ること、道徳教育の成果として行動面に表れたものを評価することについては、現行の「行動の記録」を改善し活用することとされておりますが、今後、文部科学省において、さらに専門的な検討が行われるものと考えております。
伊 藤 点数による評価、知識があるかないかを評価するのではなくて、文章ですから総体的に評価するようになっていくんだと思います。
文章による評価であっても、その評価の基準をどうするかということが出てきます。例えばA先生とB先生では評価が違うということになれば、客観的かつ公平な評価ができないことになってまいります。
この評価の基準のたて方によっては、評価を通じて特定の方向に道徳教育の成果を導くことが可能になるということになるとも考えられますので、これもなかなか大変なことになっていくんだろうなと思います。
また、教える側の問題もあります。答申は道徳教育の教科化にあたって、教員のあり方にどのようなことを求めているのか、おうかがいします。
教育部長 答申においては、教員の指導力の向上を掲げており、校長を始めとする管理職の研修を充実させること、全ての教員が、研修を受講し、指導力向上のための支援を得ることができる環境を整備することなどが求められております。
また、各学校の道徳教育推進教師には、力量のあるものをあて、研修計画の充実や授業研究の活性化を図ることで、教員の指導力を向上させるなどの役割を十分に果たせるようにするとともに、複数の学校の道徳教育推進教師への助言等を行う、仮称「道徳教育推進リーダー教師」の設置や、道徳教育を専門に担当する指導主事の配置など教員の指導力向上を推進するためのスタッフの充実も合わせて求められております。
伊 藤 先ほどこれまで道徳教育が教科化されなかった問題の一つに免許の問題があることに触れましたが、この教員免許をどうするのかということも一つの課題になってきます。特に中学校の場合は教科ごとの担任ということになりますので、その点はどうなんでしょうか。
教育長 教員免許の点についても、おそらく国のほうで検討が行われていることだと思いますが、基本的には大学の教育課程の中で道徳教育に関する内容が、今まで以上に含まれることによって指導力向上に資するような、そんなことの改善が行われていくんだろうと思うのですが、まだ現在のところ、教員免許についてはどのようにするかという結論に至っていないと認識しております。
(4)地方教育行政として意見を
伊 藤 仮に教員免許の取得が求められるようになるとすると、この免許を取得する段階も、ある特定の価値観に基づく教育に誘導する機会になることが考えられます。特定の価値観を持った者、あるいはそれを主張する者だけに免許を渡せばいいわけで、ある意味、簡単に一つの方向に道徳教育を導くことができるようになる。そういうきっかけになってしまいます。
検定教科書の問題、評価の問題、そして教員免許の問題と、道徳教育の教科化には、戦前の修身と同様の過ちを犯しかねない危険性が内在されていると言わざるを得ないと思います。
この道徳教育をすすめる場合に、今後、特に留意すべき事項は、本市としてどのようにとらえているのか、おうかがいします。
教育長 本市教育委員会では、従前から学校教育の目標や指導の重点等を示す「未来をつくるいわきの学校教育ABCプラン」の中で、道徳教育における重点事項を掲げ、その充実に努めております。
今後も道徳教育に関する国の動向を注視しながら、いわき市の子どもたちの実態や、育むべき課題を的確に捉え、道徳教育を進めたいと考えております。
また、子どもたちの道徳教育に関する教員の指導力の向上もたいへん重要であることから、引き続き、総合教育センターにおける研修の充実に努めてまいりたいと考えています。
伊 藤 いずれにしましても、今回答申に出された道徳教育の問題というのは様々な問題を含んでくるんだろうというふうに思います。それが悪い方向に転ばない、私としてはそう願うわけです。
今回、私は戦争する国づくり、できる国づくりと一体にすすんでいる道徳教育への懸念という観点からこの問題を取り上げさせていただきましたが、道徳教育の評価の難しさ、正規強化になることによる、例えば中学校では1学年2クラスの学校ですと、全部で6クラス、それが週に1時間ですから週に6時間正規の教科が増えるということになるわけで、正規強化になることによって教員の加配があるのか、ないのか、そういう教育現場での問題ということも出てきますし、様々な懸念を示す方もいらっしゃいます。そういう様々な問題があることを、この道徳教育の教科化にはあることを申し述べて、次の質問に移ります。
【以下、一般質問3に続く】
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