大震災と九州新幹線開業のその日の私
月曜日は、3.11。地元の防災無線放送から流れるサイレンに併せて黙祷をした。私はこの2年間、東日本大震災に関して何をしたのだろう。何ができたのだろう。テレビや新聞の報道や関連の番組などに触れる度に、正直うしろめたい心持ちがするのはなぜだろう。大震災や原発事故に対しての考えはまとまらないまま2年が過ぎ、とのかくその日と翌日の私のことを記録しておくことにした。
2年前の3月11日の午後。私は勤務先である実家の事業所にいて、テレビもラジオも無い環境のなかで日常の仕事をしていた。
九州新幹線の全線開業を翌日に控え、熊本県全体がお祭りの前夜の様相だった。鉄道好きの私自身にとっても、子どもの頃からの熊本駅に新幹線がやってくるという40年来の夢がいよいよ現実となるワクワクした心持ちだった。
大地震の一報を聞いたのは4時過ぎ。事業所を訪ねて来る外部の方の口からだった。ほとんど前後してネットを通じた情報で知った兄からも。
「何で今日なんだ。明日はお祝いなのに‥‥」
東日本で何が起こっているのか把握していない私は、そう思いながら急いで居間のテレビを見にいった。
テレビの画面で私自身が最初に見た大震災は、堤防を越えた津波が田んぼを走り、所々の家や道路を飲み込んでいるヘリコプターからの画面。生の映像には、津波がすぐ近くまで迫って来ている道路を走っている車が映っている。しかも中には津波に向かって走っている車もある。
上空からの映像は淡々と現実とは思えない過酷な現実を追っている。
「これは大変なことになった。どれだけの人が亡くなるか。未曾有の出来事だ。九州新幹線全線開業のお祝いどころの話しじゃない。日本と日本人は腹をくくってかからねば‥‥」とすぐに思った。
その次に頭に浮かんだことは、原子力発電所のことだった。
大震災の数年前に九州電力の玄海原子力発電所を見学した。何重にも備えられた危機管理と装置。
「原発は絶対安全です」
私の頭の中では、その時点ではまだその言葉を信じていた。
ところが東京電力の福島第1原子力発電所に被害が出ているという報道が。私はその報道を知り、怒りを感じた。
東北の太平洋側の海岸と言えば、我々素人でも一番に津波のことを連想する。想定外の津波の高さだった?そもそも海岸沿いの海抜の低い土地に原発を作ったらいかんでしょう。冷却のために大量の海水が必要であることは玄海発電所の見学の際にも学んだが、海岸沿いで津波の影響の起こり得ない海抜の高い立地は無かったのか。
安全だという言葉を信じて、原子力発電所に関してあまりにも無知であり無関心だった。私を含めて多くの日本人が同じ罪を犯してしまったのだ。
「日本はどうなるのだろう。家族を守っていけるのだろうか」
大きなそして重い不安の中で、テレビの報道を見守りながらも、地震の影響の無い私達には、普段と何ら変わらない日常の生活がある。
翌日は土曜日で、午前中で勤務が終わった。
実家で勤務先の上天草市から熊本市内の自宅に車で帰る途中の緑川の河原のその日開通した九州新幹線の高架の側で車を停めた。
全線開業を心待ちにし、準備をしてこられたJRをはじめ、沿線の関係者の方々も多いだろう。各駅での発車式、パレード。すべての祝賀が中止され、九州新幹線は時刻表通りにただ粛々と走り出した。それは当然の措置だが、3月12日の全国ニュースでは間違いなく主役だったはずの「みずほ」「さくら」「つばめ」。私は川の堤防に立ち高架を見上げて、やって来た上下2本の列車に「おめでとう」と声をかけた。
(2013.3.15)
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