雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

瞬間湯沸かし器

2012年10月22日 | ポエム
▲南阿蘇村の収穫前の黄金の田。関係者以外でも幸せになる景色です。(2012.10.19)

 瞬間瞬間湯沸かし器
 
 私の父は短気だった。
 それも瞬間的に沸騰してすぐに冷めてしまうタイプで、端で見ていてずいぶん失敗もしていた。よく事情も飲み込まないうちに、頭の中のヤカンが勝手に沸騰し、相手に大声を出してしまうのだ。
 そんなに大声で怒鳴る様なことではないことが多かったし、まったく父の勘違いであることもあった。
 父も大声を出した直後に、自分で「しまった」と思うらしく、一転やさしい声でフォローしていた。訳も分からず怒鳴られた方はいい迷惑である。
 父の怒りの相手は、自分の診療所の患者さんや薬品卸の社員、役所の職員、料理店の店員、タクシーの運転手などであり、家族や看護師さんなど身内にはあまり怒ることは無かった。ただ母だけはよく大声を出されていた。
 患者さんの場合は、やや他の怒りとは内容が違って患者さんの健康を心配するあまりに、医学上の注意を守らない患者さんに大声で注意してしまうのである。だからそれが分かっている患者さんは「先生から怒られるのはイヤではなかった」と言ってくれていた。
 しかし子どもながらに父がすぐに怒り出すことはあまりいい気がしなかった。むしろ父の短期な部分だけはとてもイヤだった。いっしょに出かける時は、父が怒り出さないか常にハラハラしていた。
 反面教師で、温厚でありたいと願いながらも私にも父譲りの短気な一面があることは私自身がよく分かっている。実際、小学校の頃は小さいながらも瞬間湯沸かし器を携帯していて、その上に手が出るのも早かったから、担任の教師に注意をされたこともあった。
 「三つ子の魂百まで」と言われるように、私の短気な性格は治らない。
 私を知っている人の中には、このことを意外に思うかもしれないが、私は自分で短気だと思っています。
 先日、東京都の世田谷区で、86歳の元警視のおじいさんが62歳の隣人である女性を日本刀で斬りつけて殺し、自身は燐家に立てこもった後で自殺する事件があった。殺された女性が飼っていた猫や育てていた植物をめぐるトラブルが発展した末の行為であるとみなされている。私はそれ以上の事件の詳細は知らないが、結果的に自分も死ぬことになるような命をかけてでも晴らしたい「怒り」とは何だったのだろうか、ということが気になった。
 かなり高齢であることから妄想などがあったのかもしれない。他の人が知らない当事者のやりとりがあったのかもしれない。被害者も加害書も亡くなって、真相は不明のままだ。
 尖閣諸島の領有をめぐる、中国人があらわにしている「怒り」に対しても、「何であそこまで」という疑問が生じる。
 どの国にもいろんな考えを持っている個人や団体がいて、一部で過激な行動に発展することもあるが、同様に日本との領土問題を抱える台湾や韓国、ロシアであのような過激なデモや暴動、国をあげていやがらせをすることは無い。それらの相手である我々日本人もニュースを見て腹は立ててはいるが、だからと言って横浜中華街で中国人や店が襲われることも無い。
 もう一つ、「グリーンピース」という反捕鯨団体の日本の調査捕鯨に対する犯罪的な反対活動もその「怒り」の真相が理解出来ない。クジラを食べることは、日本人の食文化だと思う。クジラを食べない外国人がそれに対して「野蛮だ」とか「クジラは高等な知能を持つ生き物で可哀想だ」と言うことは受け付けられない。牛や豚ならいいのか、牛や豚は下等で可哀想でないいうことか。クジラが減っているので保護しましょうという活動なら理解出来るが、そもそもクジラを絶滅近くまで追い込んだのは、鯨油を取るために欧米人が乱獲したせいではないのか。
 短気な私の爆発のエネルギーを未だに受けているのは家人だ。
 他人はもちろん、いろんな場面で抑制されたエネルギーが、家人に対して爆発してしまう。常にはいけないと思っているが、つい瞬間的に爆発して「しまったあ」と後の祭りとなることが多い(その後の関係修復の大変さといったら‥‥)。
 少し改善したのは、直後からあやまることができるようになったことと、そもそも年を取って相手のことを考える余裕が出て来て「怒り」そのものの数が減って来たことだ。
 例えば、車の運転中は他の車や自転車の運転手、歩行者などに対してほとんど怒りっぱなしで「ウインカーをあげんかい」「信号赤だろう」「二列で走るな」「人は右、車は左」とか悪態をつきながら運転していた私だが、最近は、「何か急いどらしたっだろ」とか「うっかりしとらした」とか、許せるようになったことだ。
 それでも家人に対しては短気だな。
 家人とは年が近いせいか負けたくない気持ちが働く。喧嘩をしかけても、最初から悪いのは自分で、その原因を考えると相手が正しい事が分かっているのだ。なのに瞬間、シューと頭が沸騰してしまう。シューシューまでは行かない。シューである。
 「それなら何で我慢ができないの」と問われると、不思議である。
 理性が全く無くなるのかと言ったら、そうではないのだから。つまりいくら「怒り」があっても殺人までは至らないのは、瞬間でもちゃんと理性が働いているのではないか。

(2012.10.18)

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