雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

親からの手紙

2011年11月29日 | ポエム


 親からの手紙

 今はインターネットのメール(電子メール)と言う仕組みがあって、外国であっても時差や電話代を気にすること無く、いつでも意思の疎通ができる。
 メールの是非を云々するつもりはないし、僕も実際におおいに利用している。
 よくメールの利点として言われるように、手紙よりもやり取りを急ぎ、電話のように相手の都合や時間を気にする必要が無い点がありがたい。本当に気軽だ。家を離れた町で一人暮らしをしている娘とも、たいしたようもないのに、月に1回は短いやり取りをする。娘も親からの度々の電話は煩わしいだろうし、郵便では気が重いだろう。メールがあるからこその親子のコミュニケーションだ。
 でも目上の人に礼をつくす場合やあらたまった連絡には、やはり手紙や葉書を出す。自分自身ももらってうれしい。
 僕は筆まめと言われている。しゃべることが苦手なせいか、どんなに親しい相手でも電話となると何となくプレッシャーを感じてしまう。思っていることを上手く伝えられないし、相手の言葉にもすぐさま反応出来ない。電話を切った後で、あれも伝えるはずだった、こう言えば良かった、と反省することが多い。その点では、メールという仕組みは、大変ありがたい。しかし、郵便には郵便の良さ、楽しみがある。月に1度はメールでやり取りする娘にも年に1、2度は葉書や手紙を書いてしまう。
 僕は、仕事で郵便局に出かけるが、その際に記念切手の発売をチェックし、いい図案の切手があれば買い求める。また旅先や美術館のアートショップなどで絵はがきを買う。気に入った切手や絵はがきを使った手紙や葉書をいつか誰かに投函することが楽しみである。素敵な切手や葉書を求めた機会に、顔が浮かんだ誰かに郵便を出すことさえある。
 もう一つ、手紙や葉書にあってメールに無いものは、筆跡である。筆跡に現れる息づかいである。
 高校を卒業して上京し、親元を離れた後に、数回、母から手紙をもらったことがある。服や食べ物を送ってくれた荷物に入っていた幸便だったかもしれない。内容は、どうってこともない僕の暮らしや健康を気遣ったものだが、その歴史的仮名遣いで書かれた文字を見た途端に理由をわからない涙が後から後から溢れてきて、自分でもそんな自分がおかしくて笑い乍らも涙が止まらなかったことを思い出す。
 父からはパリに遊学中に手紙をもらった記憶がある。2年間の予定の半分が過ぎた頃、あまりにつらく、ホームシックにもなって予定を切り上げて帰りたいともらした僕の手紙に対する返事だった。叱りと励ましの内容だった。その手紙を読んで僕は結果的に予定通りの期間パリに居て、後で考えたら2年居たからこそ分かったことも多く、今でも感謝している。
 しかし何だろう。父の手紙はありがたかったけど、母の手紙のように涙が溢れるようなことは無かった。
 「父親よりも母親が亡くなる時が悲しいよ」と、よく聞くが、それと似たようなものかもしれない。
 そんな父も2年前に亡くなった。母は存命だが、認知症がすすみ、家族の識別さえ分からないことがほとんどだ。今は施設に入所し、直接目の前で僕の名前を呼んでくれたことは、この2年間で3度しかない。
(2011.11.30)
 
 
 
 

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