雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

祭りのあと

2011年11月01日 | ポエム





 祭りのあと

 佐賀県の唐津は僕の第2の故郷だと思っている。母方の祖母が唐津出身だったから僕は血から言っても唐津っこのクォーターである。母方の叔母夫婦が唐津で今も健在で、僕は小さい頃祖母に連れられてたびたび唐津に行った。そして長い間この叔母の家で過ごすこともあった。
 叔父は勤めの傍ら稲作を中心に農業もやっていて、家には農耕用の牛やヤギ、放し飼いのニワトリがいる農家だった。広い敷地の裏には、自家用の作物を作る畑があり、ちょっと離れた田んぼには、リアカーを押して出かけた。農作業をする叔母について行き、用水路で水遊びをしたり、農協に行って精米をしてもらったり、大きなカッターで稲藁を切り牛の餌を作ったりしたことなどを断片的に覚えている。
 その第2の故郷、唐津で11月の2日から4日までの3日間、行われるお祭りが、日本三大くんちの一つに数えられる、唐津くんちだ。
 日頃は静かな城下町唐津が、祭りの間はのべ50万人の観光客でにぎわう。もちろん唐津っ子の祭りにかける情熱はそれ以上で、「正月は帰省しなくてもくんちには帰る」とか、無礼講のくんちのご馳走は「くんちの三日倒れ」などの言葉がある位だ。
 昨年亡くなった私の父が唐津くんちが大好きで、母と二人で毎年のように自ら車を運転して2日の宵山から出かけていた。さすがの父も80歳を前に運転が覚束なくなり、私が「行くなら一緒に行くよ」と申し出ると、喜んでくれた。父のお蔭で、私もちょくちょく唐津くんちに出かけるようになった。
 もともと祖母の里で、叔母もいる縁があった唐津だが、私の妹が祖母や叔母の縁とは関係なく、たまたま唐津の人と結婚して、3人の子どもを持ち、唐津の人となってしまった。
 その嫁ぎ先は、二番山の「青獅子」を曵く中町にある。義理の弟は祭りに深く関わっていて、年に一度の唐津くんちが彼のアイデンティティーや生活に大きな部分を占めている。9月にはソワソワ、10月になると祭りが始まり、関連行事や練習で唐津の街にはお囃子の音があちらこちらから聞こえ、次第に盛り上がりを見せる。
 そして、2日に祭りの本番を迎える。
 皆、心からうれしそうである。小さな曵子(ひきこ)の子ども達はもちろん、曵山の進行を見守り乍ら、法被姿で山に付いて行く取締役の白髪のお年寄りまで、まるで子どものようにうれしそうな顔をしている。そして初日の宵山が終わる頃には、曵子の中心の若者は、お酒の酔いもまわってか、すでにハイ状態である。顔を真っ赤に、もろ肌を脱ぎ、「エンヤ、エンヤ」と叫び続けて、終わりを知らない。
 ところが、何事にも終わりはある。3日間はそれこそあっという間に過ぎてしまう。
 妹が言うには「くんちが終わった翌日から、唐津中の子どもからお年寄りまで、魂が抜けたようになって歩いている」そうである。
 今年は3日が木曜日で、遠くからの祭り見学にはカレンダーが悪かった。見物客も少なかったように感じた。
 僕は前日まで悩んだけど、結局3日の朝になって熊本から家族3人ででかけ4時間ほど滞在し、祭りの雰囲気を堪能してまた帰った。帰りの車を運転する僕の頭の中で、唐津くんちのお囃子が止まない。
 祭りが終わると静けさが際立つ。14台の重厚な山が走り抜けた町には、山の車の跡が道路の傷となって残っている。それがだんだんと薄くなって消えていくのを見ながら唐津っ子は深いため息をつくそうである。(2011.11.8)
  


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 自然のアルバム | トップ | アンジェリーナ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ポエム」カテゴリの最新記事