私の大学時代は、まだベルリンの壁が崩壊する前でしたので、共産主義勢力がまだかなりの力を持っていた時代でした。毎日学内でビラを配ったり、集会をやったりしていました。授業中にも突然入って来て、演説を始めることも何度かありました。私はそのような左翼の信奉している共産主義とは、どんなイデオロギーかと思い、色々な勉強会に参加することにしました。
色々と学ぶうちに、共産主義が、哲学である弁証法的唯物論、経済学である資本論、歴史観である唯物史観の3つから成り立っていることが分かりました。カントやヘーゲルなどは、哲学しかありませんが、マルクスが構築した共産主義は哲学だけでなく、経済学と歴史観も持っていました。歴史観である史的唯物論でマルクスが言いたかったことは、資本家と労働者が対立と闘争を繰り返し、最後は労働者が勝利し、共産主義の国家を樹立するということです。だから、「万国の労働者よ、団結せよ」と共産党宣言で締めくくっているわけです。
この唯物史観という歴史観を持っているため、ニーチェやキェルケゴールなどの普通の哲学と違い、共産主義を学んだ人々は共産主義の世界の実現を目指して活動をし始めるのです。共産主義を信奉する人々が、その理想のために活動するというのは、まるでキリスト教徒が地上天国の実現を目指して、活動する姿と酷似していると思いました。共産主義が擬似宗教と言われる所以であります。
共産主義とキリスト教を比較してみると、恐ろしく似ていることが分かります。
共産主義 キリスト教
-----------------------------
初めの理想世界 原始共産制 エデンの園
諸悪の根源 搾取 罪
善と悪 労働者が善 神が善
資本家が悪 サタンが悪
理想世界 共産主義世界 地上天国
このように、共産主義とキリスト教は合わせ鏡のように、とてもよく似ています。恐らく共産主義を作ったマルクスが、意図的にキリスト教に似せて構築したと考えられます。マルクスの父親は熱心なユダヤ教の信者でしたが、ある時国家から強制的にキリスト教に改宗させられてしまいました。マルクスはふがいない父親を情けないと思うと同時に、キリスト教に対しては大変な恨みを持つことになりました。このキリスト教に対する敵愾心から、共産主義(マルキシズム)を努力して、頑張って、構築しました。ただ、天才と言われたマルクスでしたが、一朝一夕に膨大な著書を作成することはできませんでしたので、相当な年月を費やすことになりました。この創作期間の生活費などは、イルミナティが出していたと言われています。かなりの資金を援助したようです。イルミナティはマルクスを利用して、共産主義という擬似宗教を作らせたようです。
共産主義では、「宗教はアヘンだ」と言い、宗教を悪だと位置づけています。現実に、ソ連では多くのキリスト教徒が迫害され、命を奪われました。中国でも宗教家は迫害され、今でも地下教会で活動せざるをえません。北朝鮮にいたっては、地下活動すらできないほど、徹底的に迫害されています。
このように、共産主義とキリスト教は対立するイデオロギーのはずですが、現実にはクリスチャンでありコミュニストという不思議な人間が多く存在します。学内にキリスト教児童研究会というサークルがありましたが、キリスト教の信者でありながら、日本共産党の下部組織である民生(民主青年同盟)のメンバーが多くいました。共産主義では、キリスト教を悪と指定しているのに、両方を信奉している人々が相当数いました。クリスチャンを止めて、共産党に入るというのは、ある意味筋が通ってますが、クリスチャンであり中核派という人間は当時は、理解できませんでした。ただ、キリスト教と共産主義が酷似していることを考えれば、同居できるのかも知れません。
熱心にキリスト教を信じていても、色々な不幸な出来事が重なれば、神なんていないと神を恨み、反対の共産主義に鞍替えする人も多かったのかも知れません。神に祈り、頼んでも何も具体的には変わらないのだから、共産主義という宗教に入って、他の労働者たちと協力して、ブルジョワジーを打倒するのだと考える人が居ても不思議ではないかもしれません。ちょうどマルクスが父親のふがいなさを情けなく思い、恋人との別れも手伝って、反キリスト教主義=共産主義を構築した心情に通じているのかも知れません。恨みは愛の裏返し。
日月神事ではこう言われています。
『自由も共産も共倒れ、岩戸が開けたのであるから、元の元の元のキの道でなくては、タマの道でなくては立ちては行かん』(「星座之の巻き」第十一帖)
共産は1989年も滅びました。自由も近いうちに滅びることでしょう。
色々と学ぶうちに、共産主義が、哲学である弁証法的唯物論、経済学である資本論、歴史観である唯物史観の3つから成り立っていることが分かりました。カントやヘーゲルなどは、哲学しかありませんが、マルクスが構築した共産主義は哲学だけでなく、経済学と歴史観も持っていました。歴史観である史的唯物論でマルクスが言いたかったことは、資本家と労働者が対立と闘争を繰り返し、最後は労働者が勝利し、共産主義の国家を樹立するということです。だから、「万国の労働者よ、団結せよ」と共産党宣言で締めくくっているわけです。
この唯物史観という歴史観を持っているため、ニーチェやキェルケゴールなどの普通の哲学と違い、共産主義を学んだ人々は共産主義の世界の実現を目指して活動をし始めるのです。共産主義を信奉する人々が、その理想のために活動するというのは、まるでキリスト教徒が地上天国の実現を目指して、活動する姿と酷似していると思いました。共産主義が擬似宗教と言われる所以であります。
共産主義とキリスト教を比較してみると、恐ろしく似ていることが分かります。
共産主義 キリスト教
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初めの理想世界 原始共産制 エデンの園
諸悪の根源 搾取 罪
善と悪 労働者が善 神が善
資本家が悪 サタンが悪
理想世界 共産主義世界 地上天国
このように、共産主義とキリスト教は合わせ鏡のように、とてもよく似ています。恐らく共産主義を作ったマルクスが、意図的にキリスト教に似せて構築したと考えられます。マルクスの父親は熱心なユダヤ教の信者でしたが、ある時国家から強制的にキリスト教に改宗させられてしまいました。マルクスはふがいない父親を情けないと思うと同時に、キリスト教に対しては大変な恨みを持つことになりました。このキリスト教に対する敵愾心から、共産主義(マルキシズム)を努力して、頑張って、構築しました。ただ、天才と言われたマルクスでしたが、一朝一夕に膨大な著書を作成することはできませんでしたので、相当な年月を費やすことになりました。この創作期間の生活費などは、イルミナティが出していたと言われています。かなりの資金を援助したようです。イルミナティはマルクスを利用して、共産主義という擬似宗教を作らせたようです。
共産主義では、「宗教はアヘンだ」と言い、宗教を悪だと位置づけています。現実に、ソ連では多くのキリスト教徒が迫害され、命を奪われました。中国でも宗教家は迫害され、今でも地下教会で活動せざるをえません。北朝鮮にいたっては、地下活動すらできないほど、徹底的に迫害されています。
このように、共産主義とキリスト教は対立するイデオロギーのはずですが、現実にはクリスチャンでありコミュニストという不思議な人間が多く存在します。学内にキリスト教児童研究会というサークルがありましたが、キリスト教の信者でありながら、日本共産党の下部組織である民生(民主青年同盟)のメンバーが多くいました。共産主義では、キリスト教を悪と指定しているのに、両方を信奉している人々が相当数いました。クリスチャンを止めて、共産党に入るというのは、ある意味筋が通ってますが、クリスチャンであり中核派という人間は当時は、理解できませんでした。ただ、キリスト教と共産主義が酷似していることを考えれば、同居できるのかも知れません。
熱心にキリスト教を信じていても、色々な不幸な出来事が重なれば、神なんていないと神を恨み、反対の共産主義に鞍替えする人も多かったのかも知れません。神に祈り、頼んでも何も具体的には変わらないのだから、共産主義という宗教に入って、他の労働者たちと協力して、ブルジョワジーを打倒するのだと考える人が居ても不思議ではないかもしれません。ちょうどマルクスが父親のふがいなさを情けなく思い、恋人との別れも手伝って、反キリスト教主義=共産主義を構築した心情に通じているのかも知れません。恨みは愛の裏返し。
日月神事ではこう言われています。
『自由も共産も共倒れ、岩戸が開けたのであるから、元の元の元のキの道でなくては、タマの道でなくては立ちては行かん』(「星座之の巻き」第十一帖)
共産は1989年も滅びました。自由も近いうちに滅びることでしょう。