<日本弥栄の会今週のコラムより>
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鎌倉に行く時は、いつも晴れ
この週末、私は相模国一ノ宮・寒川神社と、鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝に行ってきました。
「ひふみ友の会」限定企画、古代史探訪の第一弾です。
まあ、古代史探訪といっても、私が取材や実地見聞で神社などをまわる際に、一緒に行きませんかという、何とも“ゆるい”企画なのですが。
バスツアーですとハードですが、こちらは無料ですから、私も気楽です。
参加者にガイドよろしくずーっと解説したりすることもないですからね。
・・・とは言っても、せっかく参加してくださった方には、その神社や歴史にまつわるいろいろなことをお話ししたり、質問に答えたりしてしまいます。
「友の会」ですから常連さんも多いですし、私もとても楽しかったです。
不思議なことに、私が家内と一緒に鎌倉を訪れる時って、必ずと言っていいほど晴れるのです。
もう鎌倉には数え切れないくらい行っていますが、台風に遭遇した時も、ちょうど台風一過になって、晴れてしまいます。
そして今回のイベントも晴れ。まあ、偶然と言えば偶然ですが。
今回、2日目の集合場所にしたのは、元鶴岡八幡宮です。私はかねてよりここに行きたかったのですが、一度も参拝したことがありませんでした。
源頼義は「前九年の役」の折、勅命により安倍貞任討伐のため奥州に赴くにあたり、この地に石清水八幡宮から八幡神を勧請しました(『吾妻鏡』)。
これが、由比八幡(元鶴岡八幡)の由来です。
そして、時代は降って源頼朝挙兵のみぎり、今の鶴岡八幡宮の、本殿に通じる大石段の、向かって右下のところに、新たに宮を建立し、八幡神をお遷ししました。
現在は「若宮社」として残っていますが、ここが二度目の遷座地です。
しかしこの宮が、建久2年(1191)に起きた大火により灰燼に帰してしまったため、新しく背後の丘(小林郷松ヶ岡)に建立したのが現在の鶴岡八幡宮です。
(本殿の方は上宮、若宮社は下宮とも呼ばれます。)
もともとこの丘には、稲荷が祀ってありました。それを、境内のさらに小高い場所にお遷ししたのが丸山稲荷です。
だから、八幡神が来る前に鎌倉に祀られていたのは、稲荷だったことになります。
藤原鎌足は、皆さんご存知の有名人ですが、幼名を鎌子といい、姓を中臣と言いました。
大化の改新で名を挙げたことで、その後は朝廷で絶大な権力を手中におさめるようになりますが、藤原氏と言えば神祇祭祀を重んじた神道の名門でもあります。
なぜ鎌子と名付けたかというと、それは母の霊夢の中に稲荷神が現れ、鎌を授けられたことで身籠った子だからだそうです。
藤原氏はこのため、ことさらに「鎌」を大切にしました。
藤原鎌足は、鹿島神宮に詣でる際、この地に逗留することになったのですが、ここでまた霊夢に稲荷神が現れ、鎌をこの地に埋めよというお告げがありました。
そのお告げにしたがい、所持していた鎌を大倉の地に埋めたので、「鎌倉」と呼ぶようになったのです。
ということは、稲荷神を正しく祀る氏族は、その霊威を背景に繁栄するという法則が、あるいはあるのかもしれません。
稲荷を大切にしたから藤原氏は大いに栄えたとも言えますし、また源氏も、頼朝が稲荷神を大切にしたから天下を取ることが出来たのかもしれません。
ところが代を経るにしたがい、しだいにおろそかにしたためか、三代目の実朝で、源氏の将軍は一時途絶えることになりました。
たしかにその後、稲荷を大切に祀った北条氏が台頭していくのです。
稲荷神は、俗に言われているようなキツネ神ではなく、本来は根源神的性格を持つ偉大な大神であるという説もあります。
稲荷=ウガノミタマ=豊受大神=国常立尊ということも出来ます。
まあ、そんな感じで、私の雑談を展開しながら、歴史探訪というか、参加者の方々と歩きながら鎌倉「ぶらり旅」を楽しみました。
「友の会」のメンバーは現在100名弱ですが、もし機会があれば、この古代史探訪「ぶらり旅」にご参加ください。
かかるのは交通費とお茶代くらいですから。
次は四国か、九州か、青森あたりの神社・遺跡を巡礼しようと思っています。
※『新編相模国風土記稿』には以下のように記されている。
「治承四年(1184)、源頼朝、由比郷鶴岡に鎮座ありし若宮(鶴岡若宮と号す)を爰(ここ)に移し旧に依て鶴岡若宮と号す。又建久二年若宮の背後、松ヶ岡〔『詞林爰葉集』曰、昔大織冠(たいしょっかん)鎌足、いまだ鎌子と申せし頃、宿願の事に依(より)、鹿島参詣の時、此(この)由比の里に宿し給ひける夜、霊夢を感じ、年来所持し給ひける鎌を今の大蔵の松ヶ岡に埋給ひけるより、鎌倉と云、按ずるに、今も大臣山と称するは此故なり〕に稲荷(松岡明神と号す)社ありしを、北方丸山に移し、其蹟(そのあと)に宮祠を建、八幡を勧請し、是(これ)をも鶴岡八幡宮と称す」