中矢伸一氏はこのように言われています。
『そもそも「善」と「悪」というのは、何なのか。どういう基準で分かれるのか。善悪という捉え方は、ある一面から見た一つの見え方、現れ方であって、別の側面から見たり、一段上から見たりした時には、いちがいにそうは言えない場合が多く、極めて主観的なものである。
日月神示にはそこのところが、端的な表現をもって喝破されている。読者はよくご存知のように、「悪を滅ぼす」という考え方そのものが誤りなのであり、「抱き参らせる」ことによって初めて消えるのだ、というのである。
「悪」もまた神の現れであり、「悪」があるからこそ「善」が弥栄え、生長する。
”神の意思”として伝達されたこの考え方は、私にとって大きな衝撃だった。私がひそかに考えていたことが、ズバリと表現されていたからである。
拙著「日月神示・二日(じし)んの巻」(KKロングセラーズ刊)で述べたように、日月神示の善とか悪とかいうものに対する概念は、シンプルではあるが、既存の宗教、とくに西洋で受け入れられている代表的宗教には見られないものである。そしてそれは、スウェーデンボルグの教説と、驚くほどの類似性をみせている。
善と悪は、絶妙なバランスの上に成り立っている。左手と同じ長さだけ右手があるように、善と同じだけ、これに相応する悪が存在する。これは「善悪の均衡(もしくは平衡)」と呼ばれる。
また、われわれ地上人の言う善とか悪とかいうものは、神の目からはないのだという。神から離れた、悪そのものの悪というものは、存在しない。地獄も同じである。相対から見た「地獄的現れ」はあるが、本質的には「地獄」はないのであり、地獄に行く者にとってはそれは地獄ではなく、天国なのだという。
神は歓喜そのものであり、大宇宙は、善と悪の大いなる均衡のもとに、永遠に進展し、弥栄えゆく。
そうしたことを、同著にまとめたわけであるが、改めて一部を抜粋してみよう。
「善のみにては力として進展せず、無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現れの一面なるが故である。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、この行為こそ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる」(「地震の巻」第九帖)
右の神示からもわかるとおり、神とは善であり悪である。また、真でもあり偽でもある。大宇宙はその大いなる平衡、つまりバランスにより成り立っているという。われわれ地上人は「善悪の均衡」の中に生きて(生かされて)おり、そこにこそ、地上人として生を享けた意義があるのである。
私も過去に何度が引用しているので、読者諸氏にとってはご存知の神示であるかも知れないが、ここのところは非常に重要な部分なので、今一度よくお読み頂きたい。
善のみの善、悪のみの悪というものはない。善悪ともの弥栄えるのが大宇宙の仕組みなのであり、ここに、「悪を抱き参らせる」ことの必要性が生じてくる。』
今まで日月神示を研究して来た中で、この善と悪の内容が一番難解です。神は全知全能であり、善のみの存在であるというのが、一般的な考えのように思いますし、私もそのように考えていました。ところが、「悪もまた神の御力の現れの一面なるが故である」という神示から察すると、神にも悪なる部分があるということになります。神に悪なる部分があるという考え方は、初めて聞きました。これはなかなか違和感のある内容です。中矢氏もここのところは非常に重要と言われていますので、今後実践して行きながら、考えていきたいと思います。
『そもそも「善」と「悪」というのは、何なのか。どういう基準で分かれるのか。善悪という捉え方は、ある一面から見た一つの見え方、現れ方であって、別の側面から見たり、一段上から見たりした時には、いちがいにそうは言えない場合が多く、極めて主観的なものである。
日月神示にはそこのところが、端的な表現をもって喝破されている。読者はよくご存知のように、「悪を滅ぼす」という考え方そのものが誤りなのであり、「抱き参らせる」ことによって初めて消えるのだ、というのである。
「悪」もまた神の現れであり、「悪」があるからこそ「善」が弥栄え、生長する。
”神の意思”として伝達されたこの考え方は、私にとって大きな衝撃だった。私がひそかに考えていたことが、ズバリと表現されていたからである。
拙著「日月神示・二日(じし)んの巻」(KKロングセラーズ刊)で述べたように、日月神示の善とか悪とかいうものに対する概念は、シンプルではあるが、既存の宗教、とくに西洋で受け入れられている代表的宗教には見られないものである。そしてそれは、スウェーデンボルグの教説と、驚くほどの類似性をみせている。
善と悪は、絶妙なバランスの上に成り立っている。左手と同じ長さだけ右手があるように、善と同じだけ、これに相応する悪が存在する。これは「善悪の均衡(もしくは平衡)」と呼ばれる。
また、われわれ地上人の言う善とか悪とかいうものは、神の目からはないのだという。神から離れた、悪そのものの悪というものは、存在しない。地獄も同じである。相対から見た「地獄的現れ」はあるが、本質的には「地獄」はないのであり、地獄に行く者にとってはそれは地獄ではなく、天国なのだという。
神は歓喜そのものであり、大宇宙は、善と悪の大いなる均衡のもとに、永遠に進展し、弥栄えゆく。
そうしたことを、同著にまとめたわけであるが、改めて一部を抜粋してみよう。
「善のみにては力として進展せず、無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現れの一面なるが故である。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、この行為こそ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる」(「地震の巻」第九帖)
右の神示からもわかるとおり、神とは善であり悪である。また、真でもあり偽でもある。大宇宙はその大いなる平衡、つまりバランスにより成り立っているという。われわれ地上人は「善悪の均衡」の中に生きて(生かされて)おり、そこにこそ、地上人として生を享けた意義があるのである。
私も過去に何度が引用しているので、読者諸氏にとってはご存知の神示であるかも知れないが、ここのところは非常に重要な部分なので、今一度よくお読み頂きたい。
善のみの善、悪のみの悪というものはない。善悪ともの弥栄えるのが大宇宙の仕組みなのであり、ここに、「悪を抱き参らせる」ことの必要性が生じてくる。』
今まで日月神示を研究して来た中で、この善と悪の内容が一番難解です。神は全知全能であり、善のみの存在であるというのが、一般的な考えのように思いますし、私もそのように考えていました。ところが、「悪もまた神の御力の現れの一面なるが故である」という神示から察すると、神にも悪なる部分があるということになります。神に悪なる部分があるという考え方は、初めて聞きました。これはなかなか違和感のある内容です。中矢氏もここのところは非常に重要と言われていますので、今後実践して行きながら、考えていきたいと思います。
気が付いてはいます。
そもそも、「善と悪」といったように区別する事が、間違っている気がします。
全てが必然だと思います。
この部分について私も考えています。確かに、そうだとも思えますが、悪の中に入りたくはないですよね。悪が消えることが理想的ですよね? やはり矛盾を感じます。