入院中のベッドの中でハナ・アーレントの『全体主義の起源』(全3巻)を読み始めた。ずっと以前に読んだときには図書館からの借用本だったが、今回は古本を購入して読んでいる。再読である。
入院治療中というのは読書暮らしには最適で(それ以外にはあまりやることがない)、順調に読書が進み、まもなく第2巻の半分くらいのところになったころ、無性に詩が読みたくなった。その病院には入院患者が使えるWiFiがあり、許可をもらえばパソコンも使えるので、さっそくネットで古本を探した。思潮社の『現代詩文庫』というシリーズから7冊ほどの詩集を注文した(現代詩文庫シリーズは値段が手ごろでたくさんの詩人の詩が読めるので、若いころ、ずいぶんと助けられた)。
ネットで注文した古本のなかに「安西均詩集」も含まれていた。「安西均」の名前はよく知っている。その詩を若いころには絶対に読んでいるはずだ、という確信があるのだけれど、どんな詩を書いていた詩人なのか、まったく記憶がない。記憶がない以上、安西均は未知の詩人で、新しい詩人とその詩に出合えることになると、喜んで読み始めたのである。
ページを開いた最初の詩は、「ぼくはふと町の片ほとりで逢ふた/雨の中を洋傘(傘)もささずに立ちつくしてゐる/ポウル・マリイ・ヴェルレエヌ」とういう「ヴェルレエヌと雨」の詩。つぎは「フランソワ・ヴィヨンと雪」、その次の詩は「ヒマワリとヴアァン・ゴッホ」、次は「西行と田舎(プロヴァンス)」、次は「人麿と月」というふうに続くのである。
一読して「安西均は〈知〉の詩人なのだ」という思いに駆られる。まず、ある〈知〉があり、そこからイメージされる語句を美しく配置する、そういう詩のイメージである。
幼いころから詩が好きで、児童詩も含めてたくさんの詩を読んできた(つもりである)。そうして詩人という人々は〈知〉に恵まれた人たちだと漠然と思いこみ、憧れと敬愛の念を抱き続けてきた。
とはいえ、私は抒情の詩が好きなのである。〈知〉と〈論理〉に裏打ちされた抒情、強いて語れば、そんな詩を待ち望んでいる。ただ、かつて若い人たちが詩を「ポエム」と呼んでいわば軽蔑すべきもののように話すのを聞いて驚いたことがある。たしかに、抒情詩と呼ばれるもののなかには情緒だけが漂っているような詩がたくさんあって、そういう詩が「ポエム」などとくくられるのは仕方がないという気もする。かつて、小野十三郎が「日本の戦中の精神主義(大和魂!)と詠嘆的抒情のおぞましい結託ぶりへの批判」(細見和之)を行ったのは理のあることであった。
さて、この安西均詩集には〈知〉が、〈知〉の詩が満ちているが、「ひかりの塩」という詩には目を見張った。
木の葉を洩れる月の光を潜り抜けると
ぼくは飛白(かすり)の着物をきた少年だった
患っている弟のために隣り村の医者へ行き
薬瓶のなかにも月光色の水を詰めてもらう
古い街道の杉並木にさしかかると思わず足がうわずって
海を渡るキリストみたいに「勇気」をよびよせるのだった
………
いまでもぼくは薬瓶をさげて月光の中を急ぐ夢を見る
どこへ誰のもとへ――弟は戦争で死んでしまったのに
夢の中でぼくはいつも眩く「夜がこんなに明るいのは
あの夏の光のように烈しい命が地の底で塩になっている
からだ」と。(p. 32)
子供時代、弟のための薬を求めて隣村まで出かける少年(詩人)が描かれ、どのような大きな抒情が紡がれるのかと、どきどきしながら読み進んだのだが、最後の2行は、隠れもなき〈知〉が溢れてしまったようだ。
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