六甲山で現代アートをやっている。
11/23が最終日
その前日に今年2回目の鑑賞
その話の中で
「結婚がしたい」と言っていた若い女性
適齢期ともなれば確かに感じるのだろうプレッシャー
僕はそのことを今朝風呂に入りながら
ある事に気付いた。
前からブログでも展開していた
「つきあっている」とか「結婚している」などの言葉の胡散臭さに
なんで僕がこの言葉に嫌悪感を抱いていたのか。
そして似た様な言葉はどういうもので
その本質はなんだろう。
シャワーのお湯が僕の脳を刺激してある一定の結論を導き出す。
第3者のための言葉
これが僕には違和感を感じるのだろう。
つまり若いカップルでの会話
「私のことどう思ってるの?」
「つきあって欲しいってこと?」
「どうなの?」
完全に相手との契約を結ぼうとしている。
つまり2人だけではなく
第三者に「私達付き合ってます」と言うための言葉である。
そんなことない
そう思う人もいるかもしれないが、
もしあなたとその大切な人が世の中に2人しかいなかったらと考えて欲しい。
付き合う
とか
結婚
が
存在したのだろうか。
その言葉を求める若者は
ある意味2人だけの世界ではなく
友達に自慢するため、
友達に彼を取られないため
相手が浮気しないための必死の抵抗
相手が私を見てくれるための欲望
本当に醜く儚くそして悲しい人間の汚れた感情なのだ。
若い頃は確かにその薄汚いその感情を
恋
と呼んで楽しい刺激を脳に与えていたいのだろう。
しかし全て
愛
ではない。
全て自分のための言葉
相手のために死ねる
そこから生まれたものではない。
だから嘘っぽいのだ。
もっと色々思いついて哲学したいと思っていたのだが、今日はUSJに遊びに行くからこの辺で。
寒空の強風。
バックドラフトループでもいいかもね。
フライングダイナソー乗れるかな?
今回はボッチじゃないよ。
イッテキマース。
僕は付き合ってとか言わないし、
言って欲しくもないけど、
紅葉がハラハラ落ちる様に
可愛い女性に恋に落ちていく