平成版徒然草

自由気ままにその時々の感想や写真などを残しておきたいと思いBLOG作成を思い立ちました。作成から早9年経過・・

2011年を顧みる(本年最後の投稿)

2011-12-30 15:46:54 | Weblog
あと1日で2011年が終り新年を迎える。今年は3.11の東日本大震災で1年が過ぎてしまったような気がする。3.11は丁度戸外で勤務中だった。眩暈(めまい)のような感覚に一時惑わされ、あ~私もそろそろ歳かなあ?と思ったとたんに近くの電信柱や電線、木々の葉がザワザワと音を立て、付近の住宅もギッシギッシと揺れ始めた。これは地震だとすぐに気が付いた。関東地方でも今まで経験のない地震だった。その後は三陸地方に大津波が押し寄せ家屋の消滅、福島原発の爆発、放射能漏れと惨憺たる大惨事であった。(詳細略)政権は鳩山から菅に変り、菅から野田にころころと変わり、政権公約はどれ一つ取り上げてもまともに果たしているものはない。時間的にはあと十数時間すれば新年を迎えることになるが夢も希望も今の状況からは見出せないのは私だけであろうか。テレビでは徳川幕府の基礎を築いた家康~家光時代を生きた女をテーマに大河ドラマ「江」が放映され、明治の時代を純粋に、かつ、懸命に生き抜いた秋山兄弟、正岡子規などを登場させた「坂の上の雲」が3年がかりで放映された。マッカーサーの65年日本弱体化占領政策の効果がボデイブローを打たれたボクサーのように、ずっしりと今の日本全体に応えている。個人的には今年も病気一つせず、6月からは新たに新宿勤務が出来たことは嬉しい事であり、10月下旬に大阪の叔父が他界したことは寂しい事であった。来る年も息災で大過なく健康に過ごしたいものである。【写真なし】

たしろ会

2011-12-17 23:25:36 | Weblog
横須賀中央で今夕、年に一度の「たしろ」会が開かれ参加した。30数年前の横須賀船籍の掃海艇の仲間たちの会合である。私は時々の参加であるが、彼らは他界などで一人減り、二人減り・・・と人数は減ってはいるが、間違いなく当時、同じ釜の飯を食い、各々の配置で懸命に任務遂行に当たった連中である。掃海艇は護衛艦と異なり華々しくはないが、仲間意識は何倍も強い組織である。また来年の再会を約束し楽しく終えることができた。最高齢者は75歳、最若年者と言っても62歳決して若くはないが、気持だけは当時のままだった。  

信州遠山郷の奇祭【霜月祭】

2011-12-15 07:15:39 | Weblog
12日~14日にご近所のOさんの奥様と遠山郷下栗の里で一晩中繰り広げられる霜月祭りを見学に行った。「眠い、寒い、煙い」の鎌倉時代から営々と伝承されてきた奇祭はやはり素晴らしかった。今回は下栗の里の築100年以上という古民家のNさん宅を自由に使ってもいいということでお世話になった。【写真は夜中12時ごろからの面登場の一場面】14日は夜10時前に帰宅した。今回は12時過ぎで降参したが、次回は12時~明け方までが圧巻とのことで続きを見に行こうと思っている。

平成23年餅つき同窓会

2011-12-11 20:33:57 | Weblog
昨日豊北高校15期生の関東地区餅つき同窓会が開催された。I君はお母さんの容態悪化により直前にキャンセルとなったが、概ねいつものメンバーが揃った。今年は郷里からS君の参加があり、大いに盛り上がった。話題はいつもと変わらないが、前期高齢者にもかかわらず、みんな元気に餅つきと歓談に楽しいひとときを過ごすことができた。餅をつく人、こねる人・・・今年も元気に4臼つき、お土産として持ち帰えり、来年の再会を期し解散した。※この催しは確か平成7年頃からだったので今回で15年連続開催である。遠い山口県の高校同窓生が懸命に各々の人生を懸命に送り、顔にもそれなりの年輪が刻まれたように思った。来年の開催は12月8日(第2土曜日)が予定されている。

読売新聞「編集手帳」(小刀)

2011-12-07 19:51:31 | Weblog
先月子供の躾について「小刀」の使用やライターの安全対策について述べた。昨日の読売新聞朝刊で、よく似た内容の「編集手帳」があったので掲載する。文中の「小刀」を「時計」に書き換えてほしいとの注文に随筆家の串田氏が掲載を断ったというところがとても納得できるのだ。パソコンで世界の1秒前の情報が即座に収集できても、鉛筆もまともに削れない世代がこの社会を背負う時代になっている。一方最近の報道では、連鎖的にまったく無意味というか、原因不明のナイフでの殺傷事件が相次いでおり、しかも通り魔事件であり、被害者はたまったものではない。鉛筆削り機は便利だが人間を駄目にする。私たちが子ども、少年だったころは、周囲の大人も寛容であったし、包容力があった。高校の同級生でもタバコは何名かの友人は吸っていたし、私自身もビールは美味いと思ってたまに呑んでいた。それでも今のように陰でこそこそとか、些細なことを針小棒大に報道するようなことはなかった。高校の先生からも、「たまにはいいが、翌日の授業にこたえんように、ほどほどにやれよ・・・」って感じで、知っていてもそれを自分で判断し、行動する力を教えてくれたのだと思う。今ではそんな教師は大問題だろうが・・・、人間はデジタル思考では育たない。

クラスメートY君夫妻の墓参

2011-12-04 19:05:06 | Weblog
今日はお天気も絶好なので、1年ぶりに海自幹候同期生の故Y君夫妻の墓参に多摩境にある「フオーシーズンメモリアル」に行った。石塔を掃除し、彼の好きだったお酒と煙草をお供えしご夫妻の冥福をお祈りした。墓誌を拝見すると平成15年5月に奥様を亡くし、翌16年8月に本人が後を追うように他界している。夫妻にとってみればそれで幸せだったのかなあと思ったりした。丁度我々と同じくらいの年齢なので、ご子息、お嬢さんも概ね同じくらいの年齢である。彼の他界からもう7年以上の歳月が経ったのだと思うと感慨ひとしおであった。帰りは少しドライブをし陣馬街道を経由し途中富士山眺望の絶景地で車を止め、手製のおにぎりをほうばる。

またもや自衛隊の安易な運用

2011-12-04 06:12:43 | Weblog
今朝、またもや福島の陸上自衛隊を被災地の除洗作業に運用することをテレビ報道していた。果たして本当にそうなのかといつも疑問を感じるのだ。ニワトリの伝染病、狂牛病などで死骸の移動や埋設などにも使われ、何かあれば直ぐ自衛隊を要請する。 それには自衛隊側(実動部隊)にとってもいろいろの制約や意見があっても、政府、防衛省のトップは問答無用と言わんばかりに派遣命令を出す。実動を命じられた部隊は必死に任務を完遂するべく指揮官はじめ一隊員にいたるまで頑張る。それで与えられた兵力をへとへと状態になって完遂する。やはり自衛隊は強い、力強いと世論は好意的に評価し、報道する。自衛隊設立の主目的は何なのかが全く理解されていないし、平時は大したことはやっていないから使うべきだという為政者の安易な気持、個人の人気取り、選挙票集めの手段に使われる自衛隊はたまったものではない。災害がないときは休んでいると思ったら大間違いで、精強な部隊の維持のための教育・訓練はもちろん、ゆっくりと休養を取るのも不可欠なのである。これがシビリアンコントロールで自衛官(軍人)は【絶対に問答無用】というのであれば、いつかは組織は金属疲労し暴発しかねなくなる。どんなことにも文句を言わず、どんな人物が防衛省のトップに就いても、自衛隊観艦式や観閲式などの行事にみられるよう不平も言わず整〃と行進している。そんな自衛官の心中はいかばかりかと察するに余りある。自衛隊の安易な運用はこの国をダメにする。【写真は12.4のTV報道】 

「無識の指揮官は殺人者なり」

2011-12-03 19:48:09 | Weblog
表題は現在NHK放映の司馬遼太郎原作「坂の上の雲」の2部の一幕での、秋山真之が発した言葉である。海自現役当時、このドラマで演じていた兵棋演習(図上演習)をスーパーコンピュータを駆使し、現代の戦略、作戦、戦術等を幹部学校学生や部隊指揮官クラスが訓練する装置を運用する勤務をしていた。ある時の学生が訓練をしていた時のことであるが、護衛艦の運用で護衛艦「○○」は囮(おとり)として運用する・・・と説明していたが、当時の教官から厳しい指導があった。まさにこのドラマでの経緯と類似している。護衛艦の中には数百人という乗員がおり、指揮官たる艦長以下の生命がかかっているのだ。より最善の方策をいかに見出すか、身を削るような勉強、研究をしてこそ「指揮官」を遂行できるのであり、現在の我が国の政治家の醜態を見るにつけ、軍の組織ではないにせよ考え方は全く同じと思うのだ。今回の防衛省の大臣、施設局長等の軽々しい言動と、国益の損失を顧みず面白おかしく報道した「琉球新報」のマスコミ報道には許せない憤りを感じるのは私だけであろうか。【写真は海軍の兵棋演習の一場面:江田島にある海自幹部候補生学校大講堂でのロケであり現存している】

そうか 今日で結婚39周年

2011-12-02 06:09:44 | Weblog
朝早く目が覚め、今日は12月2日か、あっそうだ結婚記念日だと気付いた。昭和47年の12月は江田島第一術科学校に任務課程学生として入校中だった。私がまだ勤務上は横須賀在籍「護衛艦しきなみ」であった関係上横須賀で式を予定していた。土曜日がたまたま休みで土、日曜日を利用しての慌しい結婚式だった。金曜日に夜汽車(懐かしいなあ)で広島から横須賀まで移動し、土曜日に新郎側の身内は両親と妹1人、後10名くらいは乗組み士官、新婦側はそれなりの人数が参加した。クラスで同艦勤務のT機関士が司会をやってくれた。仲人は「しきなみ艦長御夫妻」にしていただいた。終って翌日は両親を鎌倉や横須賀基地見学に連れて行き、日曜日の夜汽車で江田島に戻った。双方10数名のささやかで質素な結婚式だった。その年の大晦日には新婚旅行を兼ねて実家に帰省し、実家の自治会では、私が長男であることで約50軒近くの各家の夫婦?が出席されての披露宴があった。小学校の先生や郷里の同級生などに参加していただいた。「あれから約40年」(どこかで聞いたことば?)健康で概ね仲良く持ったものだとつくづく思う。これからもお互い健康に留意し二度とない人生を悔いなく送りたいものである。※任務課程:当時護衛艦水雷士で初級幹部としての基礎的知識の修得のための約1ヶ月半程度の短期入校 【写真なし】