先日19日にスマートフォンの機種を変更した。約2年使用したsharp アクオスからsony xperiaで同じauの同じような形をしているが、製品会社が異なることにより、使って初めて一長一短を感じた。特に感じたのは①処理速度が数倍も早いこと。②映像が格段にきれいであること。③音声がすっきりし、スマホスピーカ自体がステレオになっていること。④デジカメ機能が通常のデジタルカメラを凌ぐ性能であること。⑤内蔵容量が32GBと大容量(micro SD外部メモリ128GB)等だろう。ほんの2年間だが各社の製品開発競争を実感する。ただ、驚いたことは、これほど性能アップしているのに、赤外線でのデータ送受信機能がないため、別のデジカメ(赤外線送受信機能付)とのデータのやり取りができないことである(auカタログを見るとしっかり表示してあり、確認せず変更した私が悪いのだろう)。auショップの担当者は「今まで使用している機能は全て付いているし、性能もアップしている・・」と説明したように記憶しているがあとの祭りである。もうおそらく買い換えることもないかもしれないし、次の懸案事項はモバイルWIFIと固定パソコンの光フレッツ接続をいかにするかだ。年金暮らしはいかに出費を少なくすべきかが大切なんだから・・・。アイホン6が熱狂的発売開始と同じ日だったので、アイホンとスマホの区分をあまりご存じない方数名から「アイホンに変更したの?・・」との問い合わせがあった。それにしても前期高齢者の老化抑制のための薬と思えば安いものだな・・・。
昨夜東京原宿《水交クラブ》で同期生会が開催され同伴で参加した。司会などの話では既に鬼籍に入ったクラスは21名だとか・・・。1年後の次期も21名であって欲しいと願いながら、楽しいひと時を過ごした。相変わらずお開き後、近くで数名と二次会、二次会を終え、中目黒在住のMさん宅に立ち寄り、遅くまで三次会・・・。有意義な秋の夜長を楽しんだ。追記メモ:昨夜は幹部学校当時のF教育部長・H教務課長・私・現役のF君・A(旧姓Y)さんが横浜駅近くに集まり四半世紀ぶりの再会を喜んだ。
10数年前に護衛艦でのいじめによる自殺があり、アンケートの秘匿云々で遺族からの訴訟に敗れた事件があったが、最近になってまた似たような艦内でのいじめによる自殺が生起した。発生率としては国内全体に比較し極めて低いかもしれないが、あってはならない事件である。新聞記事の内容でしか知りえないことではあるが、それが事実とすれば絶対に許されないことである。昭和46年12月に遠洋航海を終え、それぞれ新任地に配置された時のことを思い出す。練習艦隊での実習幹部(当時の我々の配置)は約5ヵ月間、その後の部隊勤務で必要な術科等を外国に寄港しながら身につけるため艦内生活を送る。数名の曹士隊員の人事を実習幹部が受け持ちその後のための実習をするのだが、いざ新任地の護衛艦乗組となると、その日から気の遠くなるほどの乗員が自分の部下となり、即、1月の昇任や昇給、学生入校手続、或いは継続任用手続等々で自分のことは後回し状態だった。腰を据えてそればかりを処理するのではなく、艦は行動しているので、その勉強もしなければならない。もたもたしていると書類提出などが後手後手となり、艦長はじめ上司から叱られっぱなしで、自分が何をやっているのかも分からない時期があった。何しろ最近の護衛艦と異なり、大砲や魚雷発射装置などは自動化されておらず、私の所属した1分隊(砲雷科)の乗員は90人近くいたので本当に大変だった。それでも今思えば、どうにか日にちが解決してくれた。当時も今もいじめや艦内での暴力沙汰はあったであろうが、何故か最近の事件は加害者、被害者ともに《陰湿》という言葉が見え隠れしていないだろうか。何処までがいじめで、何処までが指導なのか被害者、加害者ともに理解していないのかもしれない。約35年間のうち半分近く海上勤務を経験してきたが、どこのレベル、つまり司令と艦長、艦長と幹部、また幹部と曹士、職務上の曹士間でも《いじめ》ととられる行為は何度となく経験してきたように思う。ある日突然90人近くの人事書類の作成も見方を変えればいじめかもしれないが、当時の上司は《程度・度》をよく知っていた。度を越すと悲惨な結末になるが、だからといって仲良しクラブでは強い組織、人間形成はなりえない。人間として生きていくための難しい課題である。どこまでも青く澄み切った空、群青の海を舞台とする艦艇乗組み員で二度と悲惨ないじめ事件が起きないことを祈るばかりである。【写真は9月14日読売新聞記事】
郷里の同級生や知人からの情報で小学校が全校生徒12名となり、本年度限りで閉校となるそうだ。写真は私の昭和34年当時の小学校卒業記念集合写真である。戦後のベビーブームのはしりの学年で地方の学校でも概ね1クラス40人くらいはいたように記憶している。(因みに私は中列右端)当時の先生方は時には温かく、時には厳しく強弱と表現は悪いが、飴と鞭をうまく使い分け次世代を担う子供たちを導いておられたように思う。戦後間もない時期であり、きちっとした教育指導指針とかカリキュラムとか、教職員組合・・とか子弟教育のブレーキになると思われる要素が確立されておらず、先生も子供たちも自由にのびのびと過ごしたように思う。勉強の苦手な同級生は年に一度の運動会でヒーローになれたしそれぞれの個性を生かす教育がされてきたように思う。郷里も限界集落となり、少子高齢化となり、農業に従事している年齢も上限に達し、帰省の都度、耕作放棄地が増えているように感じるし、私の実家もそうなので他人事ではない。帰省の都度、小学校の校庭の真ん中に一人たたずむと、昔の懐かしい思い出や苦い思い出等々が走馬灯のようによみがえる。祖母が、父が、おじ、おば、それに私や妹たちが学んだ学校が閉校となるのはとても寂しい思いがする。当時の子供たちのにぎやかな歓声がどこかから聞こえてきそうな気がする。
7日日曜日、グランドスラムの一つ《全米オープンテニス決勝》が行われた。日本人初の錦織圭とクロアチア出身:チリッチが対戦し、ストレートで錦織が敗れた。試合後のインタビユーでも、悔しさは隠しきれなかったようだが、自己の最善を尽くし、世界第二位になったことは素晴らしいことである。世界に通用する品格、語学、人間性、テニス技術、精神力、忍耐力などの全てを今大会で日本国民どころか全世界に発信したと言っても過言ではないほどで、負けはしたが多くの人々に深い感銘を与えたのではと思う。今の若い連中は・・と言いがちな年齢になってしまったが、錦織圭というテニス少年を発掘し、指導した松岡修造氏の貢献も見逃してはならず、監督のマイケル・チャン(台湾系米人)の指導力も素晴らしかったと思う。これから少年たちがどんどん世界に羽ばたいて行くことだろう。ただ、表面上というか、準優勝という錦織圭の結果だけが先走りするのでは、健全な、世界に通用する日本人青年になるのは難しいだろう・・・。【写真はyahooHPより】