平成版徒然草

自由気ままにその時々の感想や写真などを残しておきたいと思いBLOG作成を思い立ちました。作成から早9年経過・・

信州のたび

2009-06-23 21:05:42 | Weblog
先週18日から21日まで信州を旅した。 親不知・鬼無里・白馬村 五箇山、白川郷はとても素晴らしかった。 日曜日は十日町に行き知人の墓参、小嶋屋の蕎麦を食し、日曜日9時前に帰宅した。 パソコンの調子が悪く今夜はこの辺でやめる。

開港150周年横浜博を観る

2009-06-14 21:13:53 | Weblog
ペリーが久里浜に上陸し、日米和親条約締結後150年になるのを記念した博覧会イベントが行われており、今朝早く自宅を出て観に行った。山下公園まで散策し、横浜税関、警察署、銀行などの重厚な建物を観た。関東大震災、戦時中の空襲にも耐えたレンガや石造りの建物が各所に保存されている。 山下公園に着くと全国からカッター(短艇)競技が開催されていた。オールが綺麗に揃って、早い艇と楽しく仲良く漕いでいるチームの差は歴然としていた。そこから歩いて15分くらいにベイサイドエリアでの催し物を観る。 写真の「ラ、マシン」という蜘蛛のお化けが縦横無尽に動き回っていた。「百聞は一見にしかず」でありなかなか時間も取れないが、まタイミングよく撮れたので掲載した。

「生涯海軍士官」に想う

2009-06-06 05:57:17 | Weblog
写真は元海上幕僚長の中村悌次氏の著書である。同氏は海兵67期を首席で卒業され太平洋戦争での実戦経験者で戦後復興、海上警備隊(自衛隊)の創建、運営に抜群の貢献をされた方である。直接お仕えすることはなかったが、昭和47年頃護衛艦隊司令官当時、当時初級士官で乗っていた「しきなみ」に臨時旗艦として数週間乗艦されたことがあった。その後は平成3年頃には海自幹部学校(昔流で言えば海軍大学校)に学生教育の講師として毎年何度か来校されていた。今もご健康のようだ。穏やな、紳士的なご老体とはいえ、背中に一本筋が通っており、その目は時おり眼光鋭く我々後輩へ無言の教えを賜ったものである。戦後60数年も紛争や戦争経験もないと軍人(自衛官)はいつの間にか牙を磨ぐことさえ忘れ、民間人モードになりきってしまった。いざという時に真に役立つための心技体の「牙」を磨ぐことを忘れてはならないと思う。部下の指導(叱り方)、叱られ方をを忘れ仲良しクラブになってはならないと思う。再就職しまもなく8年になり退職を余儀なくされているが約38年近く勤務した自衛隊には「国防」という大きな使命があり常に誇りを感じて勤務してきた。その性格は今も変らず勤務しているはずであるが、ふと回りを見渡すと職場では最高齢でおそらく煙たい存在と思われているのではと感じる昨今である。仲良しクラブともそろそろお別れだ。気力はまだまだ誰にも負けたくはないが、「老兵」静かに消え去るのみか・・・。 

わたしが子どもだった頃(6)

2009-06-03 08:22:55 | Weblog
前回よりも少し遡るがこの写真は7歳(小学1年)ごろの近所Kさんの結婚式の時のものである。 新調の制服を着てお膳についたものの、何といっても腕白を通り越した腕白で田んぼで相撲をとるやら年下の三輪車を乗り回すやらで手が付けられない状態だったようだ。帰って母に思いっきり怒られた記憶がある。 今と違ってクリーニング店もなく自動洗濯機もない。 「たらい」に洗濯板、洗濯石鹸つけ、冷たい水でゴシゴシ汚れを落とす母の苦労イメージすると何と親不孝者めがと今更ながら恥じ入る次第である。農家の嫁としての母の生活は今思うと想像を絶するものだった。朝は4時ごろから起き、朝ごはんの支度、日中は農作業に終われ、昼の準備、夕餉の準備などなど、夜は夜なべ、子ども達の靴下の繕い・・殆ど休みなどはなかったように思う。戦争を体験してきた世代ならではの苦労だったと思う。(写真中央の三輪車に乗っている腕白な悪ガキが私)

わたしが子どもだった頃(5)

2009-06-02 21:58:48 | Weblog
わたしの実家は昔からの農家で私は直系の7代目である。 世が世であれば長男なのでウムを言わず家を継ぎ、専業農家か農協か役場勤務の兼業農家が一般的だろう。この写真は昭和35年の春と記載してあったので私が13歳の時のものだ。父の兄妹が6人いたのでいとこも2人~5人ずつおり合計20人となり、現在1名も従弟は欠けていない。 2001年に私の実家で「いとこ会」をやり叔父伯母や従弟の家族合計50人が集まった。 叔父伯母の実家ということもあり、子どもの頃から盆、正月や祭りなどみんなよく集まったものである。今の核家族からは想像できない大所帯、古き良き時代である。 厳しい祖父、優しい祖母、忙しい両親、いつも食い物で喧嘩する兄妹・・・その大所帯も今では85歳の母が独居生活をし、私の帰りを「岸壁の母」もどきでいつ帰るかと待っている。