昨日横浜市から「濱ともカード」なるもの(写真)が届いた。満65歳になると送られてくるようだ。自分自身はそんなに年をとったとは思っていないが、昭和21年から65年近く生きてきたのだ。映画館や横浜市の厚生施設など割引があるそうだが・・・・。年はとりたくないもんだ。それにしても60歳を過ぎてからはやはり自分でもいろんな面で「老い」を感じることが多い。特に視力と聴力が信じられないほどガタ落ちとなった。2年くらい前の視力検査は両目とも1.5以上だったが最近は1.0と0.7になってしまった。おかげで遠距離と中、近の眼鏡が必要となった。無理をせずにごく自然体で今後も過ごしたいものだ。 【写真:2歳当時、父と一緒に】
原宿、代々木、新宿一帯に広がる明治神宮の大森林、山中と見間違うくらいの自然の巨木と青々と繁る木々の葉、これが東京のど真ん中の風景である。今の職場は新宿駅が基本であるが、ここ数日は原宿で乗り降りし、途中明治神宮の杜を散策しながら通っている。概ね30分から40分くらいなので丁度いい。熊谷等関東各地では39度を越したとかで、季節外れの猛暑で熱中症などで死者も出ている。これからは自分で健康管理しなければいけないと思った。 写真のタワーは代々木駅近くのdocomoタワー他新宿南口付近の超高層ビルの頂部。
NHKのドラマ「おひさま」の大ファンである。 丁度私の母が主人公の陽子先生と同じ年代だからかもしれない。 私は終戦1年後に生まれた。母は萩の商家の娘でおそらく田んぼなどに入ったことなどなく、農作業など全く経験がなかったと思う。そんな母が当時としては大百姓の長男のもとに、どんな心境で嫁いできたのか。若い頃聞いた話で当時は「軍人の妻」になることがとても憧れだったそうである。父は満州事変勃発当時に志願兵(召集兵と異なり2年で下士官になることが約束されている制度)で入隊した。小倉の部隊に入り、その後の終戦までは関東軍司令部での下士官、准尉として勤務し命からがら(という表現が正しいのか、運が強いと言うのが正しいのか)終戦を迎え、昭和20年10月に復員し、母と実家継いだようである。父はその後自衛隊の前身の「警察予備隊」を熱望していたようであるが、敗戦ということで厭戦、軍隊は悪という当時の感情から農家の長男としての道を継がざるを得なかったようだ。その父の絶望感が私を自衛官として進ませたのかもしれない。今でも56歳で病死した父には大変感謝している。話は逸脱したが、ドラマを見るたびに「陽子先生」と私が教わった小学1年「山田先生」、2年「谷村先生」などの先生を懐かしく思い出すのである。戦争には負けても、日本人としての誇りと復興への心意気は当時の大人の皆さんは持っていたような気がする。みんな貧しかったが、心はとても温かかった。楽しい思い出ばかりである。 国策とは言いながらも戦争は絶対に悪だと思うが、人間の「性(さが)」として、自己・民族欲の主張、争うことは避けることができないのかもしれないと思った。 なお、今日初めて「明治神宮」の中、神宮の杜を1時間くらい散策した。こんな素晴らしい荘厳な静寂な杜が都心にあるとは思わなかった。
先週末に家内の同窓会が妙高(赤倉温泉)で開かれるので、家内、友人3名の計5人で行動した。11日は中央道~上信越道経由で妙高に直行、早目に着いたので、付近散策と山菜採り、その後燕温泉の奥にある「黄金の湯」【無料】に入り17:00宿泊先のペンションに送り届ける。私は燕温泉「ハイランドロッジ」に素泊まりする。温泉(泉質)は素晴らしかった。翌12日9時半に迎えに行き、安曇野わさび大王農場(写真)やいわさきちひろ美術館を散策、夕刻蓼科「パークホテル」に着く。同級生に愉快な方がおられ終始笑いっぱなし。同ホテルでの夕食時、現役当時、舞鶴で官舎が一緒だったTさんご家族と奇跡的ぱったりと再会しびっくりした。翌13日10時にホテルを出る。霧ヶ峰高原~美ヶ原高原を散策し、若干のワラビなどを摘みながら松本市内に出る。松本では国宝「松本城」を見学し、帰路につく。府中本町駅~稲城~鶴見でそれぞれ友人を送り22時頃無事帰着する。(走行距離:約950km)
日本と言う国はいつからこんな国になってしまったのだろう。今から65年以上も前まで「国」としての品格を呈していた。米国からの無差別空襲、無差別港湾封鎖機雷敷設、原子爆弾の投下、シベリア抑留、戦後の東京裁判等々連合国(主として米国)による国際法違反の代表行為を受け、生活は勿論、肉親の死、食糧の確保などに必死になり、戦後復興に日本人全体が一致協力した。私が生まれ、育ち、小学校低学年ころは敗戦の雰囲気はもう消え去っていたような気がする。全国民が平等に敗戦のあおりを受け、みんなビンボーだったから一致協力できたのだと思う。当時の人々はそんな逆境下でも目は輝き、溌剌としていた。一方、現代に目を向けると、東北大地震は東北地方を主に被災はしているがその他の地域はほとんど無傷である。リアルタイムな情報伝達、何でもかんでも情報公開、また、自党の権益、私利私欲、党利党略のみとしか思えない政治家・・・・いつからそんな日本になってしまったのか。それともそう感じるほど年をとってしまったのか・・・・。被災地の自治体、被災者は懸命に復興に向け努力し、自衛隊員は不平不満、何一つ言わず政府の「命令に服従」している。それぞれの団体や個人に今どき流行りの、「暴発」・「キレル」ようなことがなければと心配する昨今である。 写真は今朝報道していた、内容は「現場の所長が報告せずに冷却水を注入し続けたことによる「口頭注意を受けた」ということである。 政府、原発関係者は彼の独断専行の行為により被害を抑えることができただろうに・・・。現場指揮官を信じることのできない上級指揮官は最低だ。口頭注意も体裁を整えるための形式的なプレゼンスだったのか。
先週から新宿での勤務が始まった。 24時間体制の無線通信関連会社のスタッフ勤務であり、めまぐるしく動き回ることもない適当に緊迫感もある仕事内容であり、私には適しているのかもしれない。まだ始まったばかりなので何とも言えないが、誠心誠意、健康に留意し会社に貢献したいと思う。日勤はさほどでもないが、夜勤に耐えられるか周囲の友人は心配してくれているが、まあどうにかなるだろう。 (写真:新宿パークタワー34階からの早朝の風景)