28日木曜日、勤務を終え熱海の義兄別荘を尋ねる。到着は23時過ぎだった。80近い義兄は独居で健康管理には万全で元気に過ごしていた。翌29日は久し振りに3人で伊豆半島をドライブする。伊豆スカイラインを走り、稲取の《徳造丸》でお昼をとる。以後河津~松崎を経由し、函南で買い物などをし、別荘帰着は6時前だった。伊豆スカイラインの途中で異様とも思える巨大建造物があり、付近を散策した。【写真:世界真光文明教団】。建造物は新興宗教の《真光(まひかり)》の総本山だった。平日なので閑散としていたが行事の時にはぎっしりと人で埋め尽くされるそうだ。宗教にはこれといったこだわりなどはないが、巨大な建造物には圧倒された。堂ケ島で休憩をとり、三島の手前にある日帰り温泉《時の栖》に入る。湯質は最高だったがあまり繁盛していない感じがした。説明の信者の話では600万平米の土地を購入し、教団施設が建設されているそうで、真正面には富士山が雄大に聳えていた。横浜帰宅は翌30日お昼頃だった。
昨日は久し降りのお休みだったので、家内ともども桜満開の品川駅周辺をシニア仲間と散策した。品川駅高輪口午前10時に集合し、有名、無名のお寺巡りや歴史上有名な人々のお墓参り散策だった。写真は忠臣蔵赤穂浪士で有名な《泉岳寺》である。忠臣大石内蔵助を頭領に四十七士や浅野内匠頭や御内室等々の墓がずらりと並んでおり、観光客も絶え間なく、線香の匂いと煙が強い。どうしてこうも日本人は忠とか義を重んじるのか・・・。日本人に潜んでいるDNAなのか。 高松宮邸の側を通り、昭和46年の江田島卒業後の内地巡航当時に宮邸に招待され、コーヒーをご馳走になったことを思い出した。帰りに発起者のYさんと川崎の高級?居酒屋で《反省会》をする。心地よい夜の春風に吹かれ、帰宅は9時前だった。【写真は桜満開の泉岳寺】
昨日の読売新聞朝刊14面に《B29墜落 哀悼の慰霊碑》という記事が掲載されていた。昭和20年2月10日群馬県太田市にあった中島飛行場を爆撃途上ののB29(米軍爆撃機)同士が接触、墜落し米軍兵士23名が死亡したという。地元の人達と、米軍遺族との交流が始まり米空軍や遺族、地元民合同で20日除幕式を行うという。TPPなどでギスギスした日米関係を払拭する《日本人の懐の深さ、温かさを証明する》話題であった。【写真は3月17日付読売新聞朝刊から抜粋】
先日から、家内の風邪がうつって私も体調を崩した。インフルエンザとかではないようだが、痰が喉にかすかに引っかかった状態で、咳が出る。だが、別に熱があるわけではなく、寝込むこともないし、仕事もできる。家内は自分が風邪の時に病院からもらった薬を飲め飲めとうるさい。私自身は元来《薬》は大嫌いだし、健康にかかわるデータ《数値》にこだわるのがすごく嫌いなのである。今は降圧剤を医者の指示で仕方なく飲み続けている。国内での大多数の意見は血圧を下げる薬は一旦飲み始めたら死ぬまで飲み続けなければいけないようであるが、外国ではそうではないようだ。鉄分が足りない、ビタミン○、×、△等々が不足しているという理由でサプリメントを頼りにする、また、視力が悪いとか、腰や膝が痛いとかで、グルコサミン、皇潤、黒酢・・・・・・と列挙にいとまがないほどテレビで宣伝している。ダイエット食品で普通どおりに食べてもダイエットできるとか、股間の筋力不足を維持するための健康器具等々・・・。どうもガテンがいかないのだ。私は暑い時には暑く感じ、寒い時には寒く感じ衣類で体調維持をする。或いは自然に恵まれた食財、それを自分の口にまでに届ける多くの人々への感謝、それを美味しく作る人へ感謝などが大切ではないかと思うのである。実はうるさく家内に強制された《風邪薬》は全部飲んだふりをし、ゴミ箱に捨てたのだ。私は《自己治癒能力》を信じたい。風邪くらい【マスクして、ほっとけば治る】のだ。人間の身体というものはうまくできているものだ。それで自己治癒能力がなくなれば【死】ぬわけだが、それもこれも運命だから仕方ない。長命が幸福で、短命が不幸ということはない。【今回写真なし】
東日本大震災は2年前の午後2時46分発生した。ちょうど私は警備勤務で、少し暇だったのでゲート周辺をほうきで掃いていた。突然めまいかな?と思うほど地面が揺れ、もう年だから肉体労働は無理かななんて自分で思い込んでいた。すると近くの電信柱や木々がザザッザザッと異常な音を発したので、これは地震だと気がついた。仕事は定時に終わり、帰宅すると今まで見たこともない、まるで映画のシーンのような大津波が放映されていた。これは大変なことになるなと直感した。あれから早くも2年が経過した。復興作業が順調か、遅れているかは個々人の考え方にもよるが、テレビでは阪神淡路大震災の時とは比較にならないほど遅れている・・・・と報道している。地震規模も津波災害発生事象も、被害状況、程度も全く異なる大震災を簡単に比較はできないだろう。それでも言えることは《絆》ってなんなのだろうかということだ。放射線被曝によるがれきは別にしても、三陸海岸沿岸の一般がれきの受け入れに関してもいざとなると受け入れを拒否する府県が多い。風評被害により野菜などが売れなく被災地の農家は困っている、また、若いお母さんが《ゲンパツ ハンタイ》とエネルギー事情、内容も分からず、異口同音に叫んでいる。それは無いにこしたことはないが、現状や将来を見据えた叫びではないと思うのだ。今年はもう67歳になる私は、風評被害なんて気にしない。せっかく作ってもらった農産物はいくらでもいただこうと思っている。日本人は今回の地震で世界的には《素晴らしい国》だと評価されているが、真にそう思われるように《真の絆》を築いて欲しいものだ。【写真はyahooから拝借】
今日は昭和40年頃にお世話になったNさんご夫妻と十数年ぶりに再会した。76歳とは思えない若さを維持されていた。北海道重視の当時私が2等陸士でN3等陸曹は我々の班長をされていた。銃剣術をやっても持久走をやってもスキーをやってもかなわない体育万能の班長だった。昨夜は少年工科学校(少年自衛隊)の教官をされた当時の集いが市ケ谷で催されたようで、今日は久し振りにお元気な姿を拝見できゆっくりとお話が出来た。【写真は新宿センタービル53階のレストランにてNさんご夫妻】
2009年の投稿に《私が少年だった頃(3)》があり、その後なかなか続かなかった。その最後に高校時代の生徒会活動について投稿する予定だったので今回はその頃を振り返ってみる。昭和38年、私は高校2年生だった。田舎の高校といっても一応進学コースに入っており、柔道の部活に進学補講にと目の回るくらい忙しい毎日だった。生徒会会長の選挙があり、周りの同級生からも薦められ、今でも親交の厚いS君が応援演説を全校生の前でしてくれた。600~700人近くの人前で自分の所信を述べるなど、今まで経験したこともなく目の前が《真っ白》状態になったことを記憶している。結果は運がいいのか悪いのか見事当選し、柔道の部活+進学の補講+生徒会活動とさらに自分を自分で忙しくさせてしまった。生徒会長は年間の生徒会予算の振り分けや各種校内、校外行事等への参加、生徒会総会等での生徒側の要望事項などの先生方との調整等々結構忙しかった。高校野球の応援団長、或いは山口県の国民体育大会への生徒会代表での開会式参加等々忙しい中にも楽しい思い出もたくさんあった。3年生となるとクラスの大部分は部活をやめ、進学一本に絞っているのに・・という焦りもあったが、私はその時期になっても3つのことをやっていた。結局どれ一つ実らなかったが、その後の人生のためには何倍も役に立ったのではないのかなあと想う。【今回写真なし】