■カルカッタの殺人/アビール・ムカジー 2019.11.11
時は、まさに帝国主義の時代の1919年4月。
英国統治下、インドのカルカッタで政府の高級官僚が惨殺される。
物語の始まりです。
『カルカッタの殺人』 を読みました。
前半部分は、ミステリとしては地味で退屈な部類に入るのではないかと感じるのですが、後半の展開は動きもあり面白かったです。
順番を逆にして、「訳者あとがき」を先に読み、当時の時代背景などを知った上で読むのも、本書を面白く読む方法かもしれません。
政府高官の死。深まる謎。憎悪。偏見。差別。非情。友情。淡い恋情。道徳と腐敗。売春宿。阿片窟……
警視総監タガート卿、牧師グン、なによりも革命組織の指導者セン、主人公ウィンダム警部の部下パネルジーの描写が秀逸です。
車夫サルマンなど庶民の姿もリアルに描かれています。
【ひとこと】 訳者あとがきで触れられていました。
「主人公のウィンダム警部は、ほどなくハーヴィル・セッカー社の書棚で、ヘニング・マンケルのクルト・ヴァランダーやジョー・ネスボのハリー・ホーレらと肩を並べることになるだろう」
アニー・グラントは、ウィンダムにカルカッタでは、の説明をする。
「カルカッタじゃそんな言い分は通用しないわ、サム。
召使いをひとり減らすくらいなら、自分の祖母を売りとばせと言われるところなのよ。誰々さんが経済的な理由でメイドを解雇したなんてことがひとに知れたら、どんなことになるか。間違いなくスキャンダルの嵐よ。とにかく、それがインドってところなの。人間の値段は動物より安い。下僕と料理人とメイドをひとりずつ雇っても、馬一頭を飼う程度のお金もかからない」
ウィンダムについてのメモ書き。
突き放すような言い方であり、わたしはそのことに違和感を覚えた。これまでの自分の経験からすると、中流家庭の中年女性はだいたいにおいて殺人事件の捜査に協力的なものだ。それは生活に刺激をもたらしてくれる。なかには、捜査の役に立ちたいあまり、ゴシップや風聞をヨハネの福音書のように得々とまくしたてる者までいる。
わたしは除隊し、市民生活に戻ることになった。だが、愛する者たちがみな墓で眠るか、フランスの野辺で朽ちはてているときに、生きる意味がどこにあるのか。自分に残されたのは、思い出と罪の意識だけだった。だから、生きる目的を見つけだすために警察に戻った。
庭は幸せだったころの想い出をよみがえらせてくれる。戦争中には三年間、塹壕のなかで、サラといっしょにロンドンの公園を歩いた日々のことを思いつづけた。いまも芝生や花を見ながら、サラといっしょにいたときのことを夢想している。夢は夢でしかないが、庭はつねに喜びをもたらしてくれる。なんといっても、わたしはイギリス人なのだ。
革命組織の指導者センは、魅力的な人物だ。
センは煙草を一服ずつ味わうようにゆっくり喫っている。ひとは残された命が少なくなったとき、与えられた少しの楽しみにたっぷり時間を使うものだ。
「わたしの良心? あんたはわたしの罪を許しにきた司祭なのか。お忘れのようだが、わたしはキリスト教徒じゃない。わたしの罪はカルマの一部であり、カルマの掟は赦免を認めていない。決められた定めから逃れることはできない」
ベンガルの革命家たちは、きれいごとを並べたてるだけで、決して本気で戦おうとはしないという。たしかにそのとおりだ。彼らは戦うことの意味を知らない。本当の戦いとは血と殺戮と断末魔の叫びのことだ。理想の入り込む余地はない。本当の戦いとは地獄であり、敵と味方も容赦しない。
ダイヤーという男がつけた火は、インドに革命の炎を燃えあがらせ、イギリスによる支配体制を焼きつくしてしまうかもしれない。だが、わたしにできることは何もない。ときとして、ひとにはみずからを律し、歴史の荒波にさらわれないよう祈るしかないこともある。
このミステリで気になったところのメモ書き。
イギリス人がインド人に礼を言うのはむずかしい。
情報を売るのは春を売るのに似ている。大事なのは客の関心を引くことだ。客の好みを知り、欲望を掻きたてたら、商売は成立する。
世論はトラブルの予感からくるパニックによって形づくられることが多い。それは一刻も早い結果を求める。
そもそもひとは死んで何を残せるというのか。ごく一部の者は、銅像や石像になり、歴史の一ページに業績を刻まれて、永遠にその名を残すかもしれない。だが、それ以外の者は、愛するひとの頭のなかにある記憶や、セピア色の写真や、せっせとためこんだ、ささやかな所持品以外、どこにその痕跡が残るというのか。
そして、
要するに、カルカッタは特異な街なのだ。
『 カルカッタの殺人/アビール・ムカジー/田村義進訳/ハヤカワ・ミステリ 』
時は、まさに帝国主義の時代の1919年4月。
英国統治下、インドのカルカッタで政府の高級官僚が惨殺される。
物語の始まりです。
『カルカッタの殺人』 を読みました。
前半部分は、ミステリとしては地味で退屈な部類に入るのではないかと感じるのですが、後半の展開は動きもあり面白かったです。
順番を逆にして、「訳者あとがき」を先に読み、当時の時代背景などを知った上で読むのも、本書を面白く読む方法かもしれません。
政府高官の死。深まる謎。憎悪。偏見。差別。非情。友情。淡い恋情。道徳と腐敗。売春宿。阿片窟……
警視総監タガート卿、牧師グン、なによりも革命組織の指導者セン、主人公ウィンダム警部の部下パネルジーの描写が秀逸です。
車夫サルマンなど庶民の姿もリアルに描かれています。
【ひとこと】 訳者あとがきで触れられていました。
「主人公のウィンダム警部は、ほどなくハーヴィル・セッカー社の書棚で、ヘニング・マンケルのクルト・ヴァランダーやジョー・ネスボのハリー・ホーレらと肩を並べることになるだろう」
アニー・グラントは、ウィンダムにカルカッタでは、の説明をする。
「カルカッタじゃそんな言い分は通用しないわ、サム。
召使いをひとり減らすくらいなら、自分の祖母を売りとばせと言われるところなのよ。誰々さんが経済的な理由でメイドを解雇したなんてことがひとに知れたら、どんなことになるか。間違いなくスキャンダルの嵐よ。とにかく、それがインドってところなの。人間の値段は動物より安い。下僕と料理人とメイドをひとりずつ雇っても、馬一頭を飼う程度のお金もかからない」
ウィンダムについてのメモ書き。
突き放すような言い方であり、わたしはそのことに違和感を覚えた。これまでの自分の経験からすると、中流家庭の中年女性はだいたいにおいて殺人事件の捜査に協力的なものだ。それは生活に刺激をもたらしてくれる。なかには、捜査の役に立ちたいあまり、ゴシップや風聞をヨハネの福音書のように得々とまくしたてる者までいる。
わたしは除隊し、市民生活に戻ることになった。だが、愛する者たちがみな墓で眠るか、フランスの野辺で朽ちはてているときに、生きる意味がどこにあるのか。自分に残されたのは、思い出と罪の意識だけだった。だから、生きる目的を見つけだすために警察に戻った。
庭は幸せだったころの想い出をよみがえらせてくれる。戦争中には三年間、塹壕のなかで、サラといっしょにロンドンの公園を歩いた日々のことを思いつづけた。いまも芝生や花を見ながら、サラといっしょにいたときのことを夢想している。夢は夢でしかないが、庭はつねに喜びをもたらしてくれる。なんといっても、わたしはイギリス人なのだ。
革命組織の指導者センは、魅力的な人物だ。
センは煙草を一服ずつ味わうようにゆっくり喫っている。ひとは残された命が少なくなったとき、与えられた少しの楽しみにたっぷり時間を使うものだ。
「わたしの良心? あんたはわたしの罪を許しにきた司祭なのか。お忘れのようだが、わたしはキリスト教徒じゃない。わたしの罪はカルマの一部であり、カルマの掟は赦免を認めていない。決められた定めから逃れることはできない」
ベンガルの革命家たちは、きれいごとを並べたてるだけで、決して本気で戦おうとはしないという。たしかにそのとおりだ。彼らは戦うことの意味を知らない。本当の戦いとは血と殺戮と断末魔の叫びのことだ。理想の入り込む余地はない。本当の戦いとは地獄であり、敵と味方も容赦しない。
ダイヤーという男がつけた火は、インドに革命の炎を燃えあがらせ、イギリスによる支配体制を焼きつくしてしまうかもしれない。だが、わたしにできることは何もない。ときとして、ひとにはみずからを律し、歴史の荒波にさらわれないよう祈るしかないこともある。
このミステリで気になったところのメモ書き。
イギリス人がインド人に礼を言うのはむずかしい。
情報を売るのは春を売るのに似ている。大事なのは客の関心を引くことだ。客の好みを知り、欲望を掻きたてたら、商売は成立する。
世論はトラブルの予感からくるパニックによって形づくられることが多い。それは一刻も早い結果を求める。
そもそもひとは死んで何を残せるというのか。ごく一部の者は、銅像や石像になり、歴史の一ページに業績を刻まれて、永遠にその名を残すかもしれない。だが、それ以外の者は、愛するひとの頭のなかにある記憶や、セピア色の写真や、せっせとためこんだ、ささやかな所持品以外、どこにその痕跡が残るというのか。
そして、
要するに、カルカッタは特異な街なのだ。
『 カルカッタの殺人/アビール・ムカジー/田村義進訳/ハヤカワ・ミステリ 』