■青べか物語/山本周五郎 2017.10.17
『ミステリ国の人々』(有栖川有栖)紹介の古典、再読の四冊目は、山本周五郎作 『五辨の椿』 を選びました。
読めば懐かしの山本周五郎さん。
さらに別の作品を、読んでみたくなりました。
そこで、『季節のない街』 を読みました。
さらに、もう一冊と言うことで、今回は 『青べか物語』 です。
この作品は、山本周五郎が昭和三年~四年四月に過ごした千葉県安浦町での生活が元になっています。
この辺の事情は、巻末の「山本周五郎を読む」に詳しい。
「山本周五郎と私/青春の救済 山本周五郎/沢木耕太郎」
解説 「若き周五郎、人生の海に漕ぎ出す/服部康喜」
さて、題名の 「青べか」 とは
そこに伏せてあったのは胴がふくれていてかたちが悪く、外側が青いペンキで塗ってあり、見るからに鈍重で不格好だった。「あのぶっくれ舟か」と長が或とき鼻柱へ皺をよらせ、さも軽蔑に耐えないというように云った、「青べかってえだよ」
「青べか」は浦粕(うらかす)じゅうで知らない者のない、まぬけなぶっくれ舟であり、なかんずく子供たちには軽侮と嘲笑の的であった。そんなものに乗っているところを見られたら、私自身どうなるか想像がつかなかったのである。
このぶっくれ舟「青べか」を、地元の人に「蒸気河岸の先生」と呼ばれる私が、芳爺(よしじい)に丸め込まれて売りつけられるところから物語は始まる。
「青べか物語」は、「浦粕の男と女の人生」を地元の子供放送局と「ごったくや」で燗徳利を三、四本も傾けながら、河岸の「なあこ」の噂話に耳を傾ける内容となっている。
*なあこ:あにいというほどの意味
「人間なんてかなしいもんだな」、かなしく沈んだ噂話を聞いて下さい。
それは、........。
留さんと女
それよりも留さんの死のほうが強く私の心を打った。
高品家の炉端で、みんなにからかわれながら、怒りもせずに笑っていた彼、三十六号船の舳先に立って、「おも舵いっぱい」とか「スロー、スロー」などと、ブル船長に叫んでいた彼、根戸川亭で自分の女に毒づかれ、こき使われ、客たちの前でばか踊りまで踊らされた彼。---あの性質ではおそらく、幸福な生活には恵まれなかったであろう。死ぬときにも妻子がいたかどうか、仮にいたとしてもたぶん彼にとって慰めや安息とはならず、それまでの女たちがそうであったように、彼を罵りこき使い、倒れるまでがっちりと彼を緊(し)めあげたことだろう。むしろ、妻子などはなかったと考えるほうが、彼のためには仕合わせだったと、私は心の中で呟いた。
地元子供放送局の少年少女たち
私はいそいで話題を変えた。この並みはずれてすばしこい少年は、私などのまだよく知らない、もの凄いようなことを平気で云う癖があった。尤も、これまた長だけには限らない、この土地では少年と少女の差別なしに、男女間の機微に触れた言葉をじつによく知っており、そういう表現におどろいて、私がへどもどしたりすると。「へ、へ、蒸気河岸の先生もそらっ使えだ」くらい云われるのであった。
*そらっ使え:「そら使い」(空使い)の変化した語。空を使う人。知らないふりをする人、の意。
そんな彼らの放送内容は
こまっちゃくれた少年少女たちは、五郎さんの店の前を通るとき、声をそろえて喚いた。
「みそのでは幟(のぼり)もおっ立たない」
この町筋の商店は、店の脇にみな幟を立てているが、「みその」は店名を染めたがたんがあるだけで幟は立てなかった。かれらはそれにひっかけて五郎さんをからかい、わっと囃したてるのであった。
*がたん:軒へ陽除(ひよ)けのようにおろす幕で、夕方になると巻きあげ、朝になると紐を解いておろすのだが、そのときがたんと音がするので、子供たちはそう呼んでいた
「幟もおっ立たない」ような息子に、嫁を遣ろうという親はなかった。
このあいだに、五郎さんは五郎さんで友人たちとやりあい、......男として役立つかどうか......東京のさる華やかな一画へ押しあがった。
「二時間でよ、おめえ」と一人が云った、「それも初めてだっていうだに、三度も幟がおっ立ったなんて考えられっか」
「買収しただな」と一人が云った。「女に金轡(かなぐつわ)を噛ましただ」
*金轡:金属製の轡。「轡」は手綱をつけて操るために馬の口にくわえさせるもの。ここは、そこから転じて、口止め料として贈る賄賂。
浦粕の噂話の内容と言えば
この土地では、どこのかみさんが誰と寝た、などという話は家常茶飯(かじょうさはん)のことで、たとえばおめえのおっかあが誰それと寝たぞと云われたような場合でも、その亭主はべつに驚きもしない、おっかあだってたまにゃあ味の変わったのが欲しかんべえじゃあ、とか、おらのお古でよかったら使うがいいべさ、と云うくらいのものであった。
---もちろんこれら亭主たち自身も「変わった味」をせしめているのであるし......
---お兼あまにどれだけ男がいるか、本当に知っているのは亭主のしっつぁんだけだ。
土地の人たちはそう云っていた。真偽のほどはわからないが、お兼と寝た男は、きまってしっつぁんの訪問を受ける。べつに文句をつけに来るのではない、相手の男を呼び出すと、ぐあい悪そうにもじもじして、「一杯飲ましてくれねえかね」と云う。相手が幾らか出せば貰うし、ないよと云えば温和しく帰るだけであった。
半年ほどのち、私が町へ住みついてからは彼女たちとも親しく口をきくようになった。そうなってみると、ごったくや女と呼ばれる彼女たちが、みな神の如く無知であり単純であり、絶えず誰かに騙されて苦労していながら、その苦労からぬけだすとすぐにまた騙されるという、朴訥(ぼくとつ)そのもののような女性たちであることがわかった。
「まるで車曳きがこんにゃく屋へとびこんだようなもんよ」
この土地の人たちは好んで俚諺(りげん)や譬え話を引用する。それもしばしば独り合点や、記憶ちがいや、自分勝手に作り替えられるので、よその者には理解できないことが少なくない。この場合も私にはその意味がわからなかったが、おせいちゃんの説明によると、車曳きは足が達者であって、それがこんにゃく屋へとびこめば「すぐその達者な足を使われる」つまりおあしを使われる、というしゃれだそうであった。
*足を使われる:蒟蒻を作るには、蒟蒻の地下茎を粉末にしたものに水を加えて練るが、当時は足でその作業を行っていた。
「岸がんにそ云ったら、今夜は心中する晩だから少し都合してきたって、一円さつを三枚も出したじゃないの、あたいやっぱり大川に水絶えずだなって思っちゃったわ」
*大川に水絶えず:栄子は、「古川に水絶えず」を間違えている。伝統があり基礎がしっかりしているものは容易に滅びないことのたとえ。「大川」は隅田川の、吾妻橋付近から下流の別称。
微苦笑しなければならない話。猥褻な話も多多ありますが、「芦の中の一夜」など、いたたまれなくなるほどせつない話です。
それでも、人を罵るにも「うみどんぼ野郎」なんて言葉が飛び出すとなんとなくほのぼのとしてしまいます。
うみどんぼ野郎:人をののしっていう語。ばか野郎。「うみとんぼ」(海蜻蛉)のなまり。
最後に
「苦しみつつはたらけ」それはそのころ私の絶望や失意を救ってくれた唯一の本、ストリンドベリイの「青巻」に書かれている章句の一であった、
「苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である」
『 青べか物語/山本周五郎/長篇小説全集第二十六巻/新潮社 』
『ミステリ国の人々』(有栖川有栖)紹介の古典、再読の四冊目は、山本周五郎作 『五辨の椿』 を選びました。
読めば懐かしの山本周五郎さん。
さらに別の作品を、読んでみたくなりました。
そこで、『季節のない街』 を読みました。
さらに、もう一冊と言うことで、今回は 『青べか物語』 です。
この作品は、山本周五郎が昭和三年~四年四月に過ごした千葉県安浦町での生活が元になっています。
この辺の事情は、巻末の「山本周五郎を読む」に詳しい。
「山本周五郎と私/青春の救済 山本周五郎/沢木耕太郎」
解説 「若き周五郎、人生の海に漕ぎ出す/服部康喜」
さて、題名の 「青べか」 とは
そこに伏せてあったのは胴がふくれていてかたちが悪く、外側が青いペンキで塗ってあり、見るからに鈍重で不格好だった。「あのぶっくれ舟か」と長が或とき鼻柱へ皺をよらせ、さも軽蔑に耐えないというように云った、「青べかってえだよ」
「青べか」は浦粕(うらかす)じゅうで知らない者のない、まぬけなぶっくれ舟であり、なかんずく子供たちには軽侮と嘲笑の的であった。そんなものに乗っているところを見られたら、私自身どうなるか想像がつかなかったのである。
このぶっくれ舟「青べか」を、地元の人に「蒸気河岸の先生」と呼ばれる私が、芳爺(よしじい)に丸め込まれて売りつけられるところから物語は始まる。
「青べか物語」は、「浦粕の男と女の人生」を地元の子供放送局と「ごったくや」で燗徳利を三、四本も傾けながら、河岸の「なあこ」の噂話に耳を傾ける内容となっている。
*なあこ:あにいというほどの意味
「人間なんてかなしいもんだな」、かなしく沈んだ噂話を聞いて下さい。
それは、........。
留さんと女
それよりも留さんの死のほうが強く私の心を打った。
高品家の炉端で、みんなにからかわれながら、怒りもせずに笑っていた彼、三十六号船の舳先に立って、「おも舵いっぱい」とか「スロー、スロー」などと、ブル船長に叫んでいた彼、根戸川亭で自分の女に毒づかれ、こき使われ、客たちの前でばか踊りまで踊らされた彼。---あの性質ではおそらく、幸福な生活には恵まれなかったであろう。死ぬときにも妻子がいたかどうか、仮にいたとしてもたぶん彼にとって慰めや安息とはならず、それまでの女たちがそうであったように、彼を罵りこき使い、倒れるまでがっちりと彼を緊(し)めあげたことだろう。むしろ、妻子などはなかったと考えるほうが、彼のためには仕合わせだったと、私は心の中で呟いた。
地元子供放送局の少年少女たち
私はいそいで話題を変えた。この並みはずれてすばしこい少年は、私などのまだよく知らない、もの凄いようなことを平気で云う癖があった。尤も、これまた長だけには限らない、この土地では少年と少女の差別なしに、男女間の機微に触れた言葉をじつによく知っており、そういう表現におどろいて、私がへどもどしたりすると。「へ、へ、蒸気河岸の先生もそらっ使えだ」くらい云われるのであった。
*そらっ使え:「そら使い」(空使い)の変化した語。空を使う人。知らないふりをする人、の意。
そんな彼らの放送内容は
こまっちゃくれた少年少女たちは、五郎さんの店の前を通るとき、声をそろえて喚いた。
「みそのでは幟(のぼり)もおっ立たない」
この町筋の商店は、店の脇にみな幟を立てているが、「みその」は店名を染めたがたんがあるだけで幟は立てなかった。かれらはそれにひっかけて五郎さんをからかい、わっと囃したてるのであった。
*がたん:軒へ陽除(ひよ)けのようにおろす幕で、夕方になると巻きあげ、朝になると紐を解いておろすのだが、そのときがたんと音がするので、子供たちはそう呼んでいた
「幟もおっ立たない」ような息子に、嫁を遣ろうという親はなかった。
このあいだに、五郎さんは五郎さんで友人たちとやりあい、......男として役立つかどうか......東京のさる華やかな一画へ押しあがった。
「二時間でよ、おめえ」と一人が云った、「それも初めてだっていうだに、三度も幟がおっ立ったなんて考えられっか」
「買収しただな」と一人が云った。「女に金轡(かなぐつわ)を噛ましただ」
*金轡:金属製の轡。「轡」は手綱をつけて操るために馬の口にくわえさせるもの。ここは、そこから転じて、口止め料として贈る賄賂。
浦粕の噂話の内容と言えば
この土地では、どこのかみさんが誰と寝た、などという話は家常茶飯(かじょうさはん)のことで、たとえばおめえのおっかあが誰それと寝たぞと云われたような場合でも、その亭主はべつに驚きもしない、おっかあだってたまにゃあ味の変わったのが欲しかんべえじゃあ、とか、おらのお古でよかったら使うがいいべさ、と云うくらいのものであった。
---もちろんこれら亭主たち自身も「変わった味」をせしめているのであるし......
---お兼あまにどれだけ男がいるか、本当に知っているのは亭主のしっつぁんだけだ。
土地の人たちはそう云っていた。真偽のほどはわからないが、お兼と寝た男は、きまってしっつぁんの訪問を受ける。べつに文句をつけに来るのではない、相手の男を呼び出すと、ぐあい悪そうにもじもじして、「一杯飲ましてくれねえかね」と云う。相手が幾らか出せば貰うし、ないよと云えば温和しく帰るだけであった。
半年ほどのち、私が町へ住みついてからは彼女たちとも親しく口をきくようになった。そうなってみると、ごったくや女と呼ばれる彼女たちが、みな神の如く無知であり単純であり、絶えず誰かに騙されて苦労していながら、その苦労からぬけだすとすぐにまた騙されるという、朴訥(ぼくとつ)そのもののような女性たちであることがわかった。
「まるで車曳きがこんにゃく屋へとびこんだようなもんよ」
この土地の人たちは好んで俚諺(りげん)や譬え話を引用する。それもしばしば独り合点や、記憶ちがいや、自分勝手に作り替えられるので、よその者には理解できないことが少なくない。この場合も私にはその意味がわからなかったが、おせいちゃんの説明によると、車曳きは足が達者であって、それがこんにゃく屋へとびこめば「すぐその達者な足を使われる」つまりおあしを使われる、というしゃれだそうであった。
*足を使われる:蒟蒻を作るには、蒟蒻の地下茎を粉末にしたものに水を加えて練るが、当時は足でその作業を行っていた。
「岸がんにそ云ったら、今夜は心中する晩だから少し都合してきたって、一円さつを三枚も出したじゃないの、あたいやっぱり大川に水絶えずだなって思っちゃったわ」
*大川に水絶えず:栄子は、「古川に水絶えず」を間違えている。伝統があり基礎がしっかりしているものは容易に滅びないことのたとえ。「大川」は隅田川の、吾妻橋付近から下流の別称。
微苦笑しなければならない話。猥褻な話も多多ありますが、「芦の中の一夜」など、いたたまれなくなるほどせつない話です。
それでも、人を罵るにも「うみどんぼ野郎」なんて言葉が飛び出すとなんとなくほのぼのとしてしまいます。
うみどんぼ野郎:人をののしっていう語。ばか野郎。「うみとんぼ」(海蜻蛉)のなまり。
最後に
「苦しみつつはたらけ」それはそのころ私の絶望や失意を救ってくれた唯一の本、ストリンドベリイの「青巻」に書かれている章句の一であった、
「苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である」
『 青べか物語/山本周五郎/長篇小説全集第二十六巻/新潮社 』
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