2月7日(木)曇時々晴
昨日も一昨日も久しぶりに楽しく飲んでしまいました。あげくに昨日は0時ちょっと前に帰ってきてブログを書いたのだけれどもなんだかよくわからないようなブログを書いてしまったので今書き直し修正しています。もし読んだ人がいたら多分よく意味がわからずに途中で止めていたことでしょう。僕のような者でも付き合ってもらえる人たちがいることに感謝し、もっと控えめにいるべきなのについ調子に乗ってしまう自分が時々いやになることがあります。昨日いっしょに飲んでもらった先輩の某社長から短いたった一言だったけど自分を戒めるよう言われたことに感謝せずにはいられません。自分はいつもそのまんまを表現してしまうのだけれども、自分の置かれた立場で受け取る側は違ってしまうこともわかっていながらいつも忘れてしまいます。
自分は子供の時も青年の時も年老いた今もあまり変わらない人間だといつも思っています。だから喜怒哀楽も少年のままかもしれません。でも社会での位置づけが変わる度に人の受け取り方はずいぶんと違うものだと言うことはなんとなく感じています。昔からの友人達はお互いをよく知っているからいいのですが初めての方にもわかってもらえるだろうと言う甘えがつい出てしまいます。ほんとうは違うのに。
ところで、一昨日は1月にゴルフを一緒にラウンドしていただいた女子プロのYさんを囲んで食事をしてきました。一緒に囲んだ中年おじさんたちはみんなYプロのファンなので次から次へと話題を提供するので多分Yさんも大変だったんじゃないでしょうか?僕も小樽の石原裕次郎記念館から彼のヨット”コンテッサをデザインしたゴルフのマーカーを購入し、使ってもらえたらうれしいなと渡したけど試合では多分使われないと思います。でも使ってもらい優勝したなんてなったら僕は彼女の救世主だなんて気分になる夢をみていたのかもしれません。そんな縁起の良いものになれば最高です。僕は結構縁起を担ぐ男です。学生時代にはヨットレースで勝った時に着ていた服は大のお気に入りになり、勝負のときはボロボロになるまでよく着ていたものです。それだから常に勝つわけではないけど、そうして臨んだ試合はなぜか満足感がありました。自分の技量は日々の練習でつかんだ以上にはなりません。自分の技量を十二分に発揮して負けても当然の結果であり、素直に相手のすばらしさを称え、次の時までもっと練習して必ず勝ってやると言った気持ちになるものです。自分の技量の最善を尽くすと言うことは自分の持てる力をすべて発揮することですが、そのために自分の心が一番良い状態になっていなければなりません。そのための演出として縁起を担ぐのも一つの方法だと僕は思ってます。練習も十分やってきたし、自分のお気に入りの装いもして臨んだのだから、勝つか負けるかは天のみぞ知る心境になれます。よかったり、悪かったりするのが世の中なのだから結果を気にしてもしかたないことです。自分達にできることは最善を尽くすことだけだと思えばいい。ビジネスにおいてもまったく同じだと思います。昔は大事な商談がある日にはよくお気に入りのヨット柄のネクタイを締めて会社に行ったものです。最善を尽くす演出として。本来やるべきことをしないで縁起ばっかり担ぐのは僕の言っている意味とは全然違いますので誤解しないでくださいね。
彼女はあまり縁起を担がないと言ってましたが、プロの技量はほとんど差がない世界です。最善を尽くせたかと多少の運の有無が結果を左右する世界だと思います。だから自分が最善を尽くしていると言うシンボルとして縁起を担ぐのも良いのではないかと思います。
世の中は不思議なもので縁起も信じればうまく行くことが多いものです。もっとも努力した者にしかわからないことですが。よく信じる者は救われると言われます。僕はこの言葉が好きです。自分が正しいと信じたことは貫き通せば必ず理解者も出て来るものです。ただなぜ正しいのか十分考え抜き自分で苦しんで出した結果でない限り信じたとは言えませんが。ここがガンコとちょっと違うところかもしれません。僕の場合はどちらかと言うとガンコ者のこだわりに近い場合も結構多いのが少々問題かも。
要するに道を究めた者には縁起を担ぐこともいいことかもしれません。特にYプロには腕は十分なのだから縁起物に頼るのも一つの現状打開策だと僕は思うのですが。自分のお気に入りのヨットのマーカー一つで、それを使って縁起を担げなどとずいぶんバカなことを思っている自分にあきれています。どうも僕にはいくつになっても変な思い入れを小賢しく言う癖があるようです。うちの家内からもこれでいつも文句を言われています。
それでも一言。
信じられないのがあたりまえ
信じることから始めよう
信じるもの、信じる人
信じる言葉、信じる哲学
信じるものは自分で作るもの
(My即興詩より)
この二日楽しく飲んだけど、楽しくはしゃいでいる時ほど自分を慎むのが孔子の教えです。僕は君子にはなかなかなれないけど、一歩でも君子に近づいていくために慎みたい。
なるべく趣旨を変えずに酔っ払って書いたブログを直しました。この方が時間がかかることもよくわかりました。そのわりにあまり変わってませんでした。
それではまた。
週末に浜松に行きます。その話はまた見てください。