”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話(ウォーキング15-2)四国城巡り No2

2015年03月28日 18時51分15秒 | 趣味

3月28日(土) 晴

3月24日から26日にかけて四国の百名城9ヶ所を巡ってきました。今回はその第2回目になります。
四国には藤堂高虎が築いたとされる城が3つもあります。宇和島城、大洲城、今治城です。そしてどれも日本百名城になっています。

自分は若い頃藤堂高虎と言う人物に対して元々浅井に仕えていた人物が信長、秀吉、家康と常に勝ち組に仕える腰巾着のような男と思っていたのですが、彼がどうして必要とされたのか歴史を紐解いていくことによりよくわかりました。彼が秀でた土木技術を持っていることを認めて過去にとらわれずに召抱えた人物が天下を取ったと言うことです。現代の企業にも当てはまることですが、すぐれた技術を持った人間を好き嫌いでなく使うことができる経営者がいる会社が発展すると言うことです。

余談が長くなってしまいました。さてここからが本題です。
藤堂高虎は築城の名手と言われ全国にたくさんの城を造りましたが、彼の築城の考え方が江戸時代の城造りの手本になっている訳です。
高虎はまず自然の地形を最大限活用して、守りを固める城造りをしました。その基本は石垣はより高く、堀はより長く、そして城門には虎口(こぐち)。ほとんどの城の城門は虎の口のように敵に食いつく場所として押し寄せた敵を門の前で防ぎ止める形(枡形)になっています。
高虎の設計した城はこれらの基本とその土地の地形を考えて造られている訳です。

宇和島城

宇和島城の周囲は堀と海に囲まれた自然の地形を活かした城でした。周囲を歩くと四角形に見えるけど実際は5角形であり四方から敵が攻めてきても残りの一辺から海に逃げられる設計になっていました。そして天守は山の山頂に造られています。高虎が関ヶ原の戦いで功績をあげ20万石加増されて今治に移り、そのあとに伊達政宗の長男秀宗が宇和島城に入り、明治まで伊達氏の支配下となりました。天守は伊達氏により修復されていますが現在まで残る12古天守の一つです。
山道を登り、山頂付近に高く積まれた石垣の上に天守があります。



次は大洲城、

大洲は鎌倉時代の守護伊予宇都宮氏の時代から続く古い城でしたが、藤堂高虎が入城し近世の城郭として整備されました。しかしながら明治に入り一度すべて取り壊されました。ただ当時の設計図等が残っていたため再度復元されて現在に至っています。



復元されたものですが、ここも高い石垣で囲まれています。


最後に今治城

ここも宇和島城から移ってきた藤堂高虎によって築かれたしろですが、こちらは海水を堀に引き入れた海城でした。従って石垣はあまり高く詰めなかったようですが、代わりに堀の巾を長くして守りを固めた城となっていました。そして城内には瀬戸内海から直接船で乗り入れることが出来たそうです。今治も日本三大水城の一つとなっています。



優雅な城ですよね。今治は藤堂高虎が伊勢・伊賀に移ったあとやってきた久松松平氏の居城として明治を迎えます。今治城も明治以降取り壊されてしまいますが、藤堂高虎の造った天守が丹波の亀山城に移築されたことから、亀山城を模して天守が再建されています。



非常に長くなってしまいました。ここまで読んでいただいた方ほんとうにありがとうございます。実は今回の四国名城めぐりで2番目に気に入った城が海の堀に囲まれたこの今治城でした。瀬戸内海から船で城に入って来るなんて格好良すぎて・・・。もし昔のまま残っていたら僕のヨットで立ち寄ってみたかったことでしょう。

次回は四国の名城、高知城と松山城を中心にお話したいと思います。