北京政府は、中国国民の「自由と民主主義」への要求を弾圧すべきではない

2005年05月05日 19時19分20秒 | 反日問題
「5・4運動」記念日、反日デモ抑え込み (読売新聞) - goo ニュース 

 中国・北京政府が4日、「愛国抗日5・4運動」を記念する「反日デモ」の押さえ込みに成功した模様である。各地で厳戒態勢を敷いたのが、功を奏したらしい。ここまでできるのであるから、「やっぱり」という感は拭えない。あの「反日暴動」は、「北京政府のやらせ」だったことを証明する結果となっている。
 だが、中国国民の「反日感情」の矛先が、ズバリ日本に向かってこなかったのは、幸いでるけれど、「反日デモ」に内在している「反政府運動」まで、事実上「弾圧」されてしまっている中国国民は誠に気の毒である。
 自由で民主的な国の国民であれば、「デモ」は、「表現の自由」に属する大事な基本的人権の一つである。それが、国家権力の都合で、許されず、「弾圧」の対象にしている国は、「自由と民主主義の敵」であるとともに、「反人権国家」と断じてよい。国民のフラストレーションは、近い将来、必ず吹き出してくる。「お金」という「現世利益」を追い求める「現実主義的な国民」が、いつまでも共産主義という建前に満足し続けるはずもなく、「貧富の差」が拡大していけば、「不満分子」が、「革命的な過激行動」に打って出てくるのは、いわば経済社会発展の原則である。
 それにしても、日本のマスコミ各社は、1919年5月4日、いわゆる「5・4運動」を「抗日運動」としてのみ解説しており、これは、あまりにも単純すぎる解説である。「5・4運動」が、「抗日運動」の側面を多分に持っていたのは、紛れもない確かな歴史的事実であるけれど、この部分のみを強調し過ぎると、当時の中国の国内状況を正確に把握することができなくなる。
 今日の「反日デモ隊」が掲げている「ブラカード」や「シュプレヒコール」をテレビ・ニュースなどで見聞きする限り、確かに「反日デモ」であるに違いないと認識できる。だが、現象のみにとらわれていると、「反日デモ」という表の現象の裏に内在している本質部分に「中国国内で徐々に顕在化しつつある諸矛盾」が見えなくなり、その結果、読者が誤解させられてしまう。
 たとえば、読売新聞の佐伯聡士・北京特派員は、「5・4運動」について、「愛国抗日、全国に拡大」の小見出し付きの記事で、こう解説している。
 「5・4運動は、1919年5月4日、北京で始まった愛国抗日運動だ。
 第一次大戦後のパリ講和会議で、日本の対華21か条廃棄を求める中国の要求が拒否されたことなどから、北京の学生約3000人が天安門に集まり、講和条約調印拒否、日本製品排斥などを訴えてデモ行進を行った。運動は全国に拡大、労働者も上海などで大規模ストライキを行った。共産党は、運動を「新民主主義革命」の出発点と位置付け、5月4日は祝日「青年の日」となっている。
 しかし、今の反日行動を支持する多くの学生らにとっては、「反日記念日」であり、最近は、「この日に立ち上がらない者は、『英雄』ではない」との声さえ出ていた。」
 これだけの記述だと、いかにも日本が、「最大の悪」のような印象を読者は受けるだろう。紙面に限りがあるので、やむを得ない点はあるとはいえ、「歴史にうとい読者」の多くは、そう受け止めるに違いない。
 しかし、「赤尾の豆単」よりは少し大きめの「歴史小辞典」(山川出版社)を紐解くだけでも、全くべつな印象を受けてしまう。
 「1919年5月5日北京で起こった愛国運動。19年パリ平和会議で中国の要求が通らなかったうえ、二十一か条要求に同意したことが暴露され、中国人は帝国主義諸国とくに日本と、これに結びつく国内封建勢力に強い怒りを覚えた。5月4日北京の学生約3000人はテモを行い、二十一か条要求の当事者曹汝霖(そうじょりん)と陸宗輿(りくそうよ)らの罷免などを要求し、曹の家に放火した。段祺瑞(だんきずい)政府はデモ隊を弾圧し、負傷者・逮捕者が多数でた。学生は連日、民族の危機、日貨排斥などを市民に訴え続け、6月3日になると運動は市民・労働者の間に広まり、援罷業が全国各地で行われた。16日には上海に全国学生連合会が、ついで全国各界連合会が結成された。こうした運動の高まりの前に、段政府は6月7日逮捕した2000人の学生を釈放し、9日曹ら3名を罷免し、28日には講和条約の調印拒否を内外に声明せざるをえなかった。この運動を契機に知識分子に分裂が生じ、李大しょう(りたいしょう)らに代表された左翼分子は中国共産党の成立を準備した。一方、孫文は国民党の大衆化の必要を学び、国共合作への道を追求した。労働者が自覚をもって革命運動に参加し、軍閥と帝国主義が一体であることを暴露した点などから、中国革命史上、新民主主義革命への端緒を開いた画期的事件である→新民主主義(藤田)」
 この記述を読むだけでも、日本の「二十一か条要求 」は、当時の欧米列強ばかりか、当時の中国政府も同意し、中国の廃棄要求を無視している。しかも、「帝国主義諸国とくに日本と、これに結びつく国内封建勢力」が存在していたことは歴然たる事実であり、中国人が、これに強い怒りを覚えたのである。さらに、「軍閥と帝国主義が一体」であったという事実は、日本帝国主義と結んで、利益を得ていた軍閥が幅を効かせていたということである。そもそも、中国は、万里の長城を築いて「蛮族」からの侵略を防いできた長い歴史が物語っているように、蒙古民族がつくった「元」に征服されされ、漢民族「明」が建国したものの、いまの満州辺りの蛮族「金」が征服して「清」を建国して、漢民族がひどい目にあってきたという歴史がある。この「清」を倒したのが、日本に支援された孫文「辛亥革命」を起こした事実を忘れてはならない。孫文は、軍閥に悩まされ、「北伐」を行った。
 いまから振り返れば、当時の中国は、実に哀れで情ない国であった。中国3000年の歴史の過程で、多大の恩恵を得てきた大日本帝国の最大の誤りは、佐藤鉄太郎海軍中将の警めを無視したことであった。佐藤中将は、特にわが国防のあり方について深く研究して多くの著書を公にし、陸海軍備の関係については当時台頭した「大陸進出国防論」を強く警めた。これに対して、ドイツ陸軍に影響を受けていた日本陸軍が、「大陸進出」という大きな過ちをしてしまった。この陸軍の過ちも歴然たる歴史の事実である。
 それでもなお、「5・4運動」の本質を、現在の「反日デモ」と照らし合わせると、中国国民の怒りが、単に「反日」に絞られていると見ると大きな勘違いをしてしまう。日本のマスコミ各社も、軽々に「反日」の部分のみに焦点を当てて、「反日デモ」を理解したかのような錯覚に陥らない方がよい。
 「5・4運動」から現在の日本が教訓を得るとすれば、「中国の政治にかかわるな」ということである。「政経分離」、あくまで「商売」でかかわっていくのがよい。日本の政治家は、ただ単に中国・北京政府に「取り込まれる」だけのために「訪中」をしてはならないのである。中国の政治は、中国人の自由にしておくしかない。ヘタに関与すると、ひどい目にあうだろう。
 それはともかくとして、北京政府の日本に対する姿勢、態度は、「日中平和友好条約」に違反している。
 まず、「日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約」の内容を改めて確認して欲しい。

 日本国及び中華人民共和国は、
 千九百七十二年九月二十九日に北京で日本国政府及び中華人民共和国政府が共同声明を発出して以来、両国政府及び両国民の間の友好関係が新しい基礎の上に大きな発展を遂げていることを満足の意をもって回顧し、
 前記の共同声明が両国間の平和友好関係の基礎となるものであること及び前記の共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認し、
 国際連合憲章の原則が十分に尊重されるべきことを確認し、
 アジア及び世界の平和及び安定に寄与することを希望し、
 両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、
 平和友好条約を締結することに決定し、このため、次のとおりそれぞれ全権委員を任命した。
 日本国        外務大臣 園田 直
 中華人民共和国    外交部長 黄  華
 これらの全権委員は、互いにその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次のとおり協定した。
 第一条 1 両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させるものとする。
 2 両締約国は、前記の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
 第二条 両締約国は、そのいずれも、アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する。
 第三条 両締約国は、善隣友好の精神に基づき、かつ、平等及び互恵並びに内政に対する相互不干渉の原則に従い、両国間の経済関係及び文化関係の一層の発展並びに両国民の交流の促進のために努力する。
 第四条 この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない。
 第五条 1 この条約は批准されるものとし、東京で行なわれる批准書の交換の日に効力を生ずる。この条約は、十年間効力を有するものとし、その後は、2の規定に定めるところによって終了するまで効力を存続する。
 2 いずれの一方の締約国も、一年前に他方の締約国に対して文書による予告を与えることにより、最初の十年の期間の満了の際又はその後いつでもこの条約を終了させることができる。
 以上の証拠として、各全権委員は、この条約に署名調印した。
 千九百七十八年八月十二日に北京で、ひとしく正文である日本語及び中国語により本書二通を作成した。
  日本国のために       園田 直(署名)
  中華人民共和国のために   黄  華(署名)
(この日中平和友好条約は、1978年10月23日に発効した) 日中平和友好条約は、戦前、戦後の不幸な一時期を法的に清算して、新しい友好平和関係を築いていこうとして、締結されたものである。
 「靖国神社問題」をことさら問題視化するのは、「内政干渉しない」という条項に明らかに反している。「唯物論者」の集団である北京政府が、あたかも「魂」「霊魂」の存在を前提として、日本に抗議してくるのは、明らかにおかしい。
 「ASEAN諸国」において、「覇権主義的に行動」をとっているのも、「覇権条項」に反している。
 北京政府は、「国連憲章」に適合するような自由と民主主義を最大限尊重するような国家に生まれ変わるべきである。そのために、国民の「デモ」を制限してはならないのである。北朝鮮からの「脱北者」を捕らえ、拷問し、北朝鮮に強制送還するような「野蛮な行為」を行ったもいけない。これらの「野蛮な行為」を改められないような国家であり続けるなら、「北京オリンピック」も「上海万博」も開催する資格はない。


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