対独戦勝60周年式典 大戦当事国一堂に 歴史より現実 和解半ば (産経新聞) - goo ニュース
大東亜戦争(太平洋戦争)終結後に生まれた「戦争を知らない世代」には、まったく記憶にないことだが、モスクワで開かれた「 対独戦勝60周年式典」のテレビ映像を見ていると、原爆投下間もない広島市内や、B29に波状攻撃され、焼夷弾を雨あられのように落とされて、旧軍港・呉市内の廃墟や防空壕跡などの風景が、まるで昨日のことのように蘇ってきた。
祖父母や両親たちが、呉市内のあちこちに焼け焦げた死体がゴロゴロしていたという話をしていた。
自衛隊創設と同時に入隊し、後に海上幕僚長や統合幕僚会議議長にまで上りつめた矢田次夫海将が、呉湾に浮上していた潜水艦にいて、北方の灰が峰から波状攻撃してくるB29に対して、勇敢に機関銃で応戦し、ついに耐えきれなくなり、「沈座」したという武勇伝なども久し振りに思い出した。
日本人の多くは、「日本に共産主義革命が起きれば、政治家や財界人、経済人、警察官などは皆捕まり、シベリア送りにされる」という噂に恐怖していたものだ。共産主義に対する恐怖は、日本人のなかでは、いまでも根強くある。
戦前、満州国総務庁官房に勤務し、戦後、逮捕され、帰国して拓殖大学海外事情研究所に務めた佐藤慎一郎先生が、「毛沢東の運命-毛沢東に見られる人間学」という論文に、「事実の中にのみ、真実の歴史がある」として、次のように述べている。
「レーニンは、彼のすべての敵を殺した。スターリンは、彼のすべての敵と多くの友人を殺した。毛沢東もまた、彼のすべての敵だけでなしに多くの同志を殺している。とくに同郷の親友であり、革命の同志であり、そして国家主席たる劉少奇を、最大の敵として、なぶり殺しにしたのである。野獣には大自然の摂理があり、自らルールがある。毛沢東にはルールはない。あるものは権勢欲からくる残忍さだけである。私は毛沢東の親密な戦友林彪副主席が、数々の例証を挙げたうえで毛沢東を定義して『彼は一個の懐疑狂であり、虐待狂である』(1972・1・13、中共中央文件、4号。『 571工程紀要』)と断定した言葉を思い出して慄然とした」
毛沢東は、国共内戦、文化大革命などの権力闘争を通じて、数え切れないほどの同志や同胞を殺している。これは、紛れもない歴史的事実である。日本と中国は、これから「歴史の共同研究」を行うことで合意しているが、戦後史の研究において、毛沢東の悪行も正しく歴史認識して、その成果を小中高校の教科書に正しく記述できるだろうか。歴史のつまみ食いは許されない。
もう一つ、忘れられない著作がある。「北欧諸民族の祖国愛」(昭和39年10月3日、日本民主協会刊)という本だ。著書は西村敏雄・元陸軍少将(第14方面軍(山下兵団)参謀副長、大本営中央特殊情報部長)で、戦前、フィンランド・スウェーデン各公使館付武官を務めている。私は、この本を高校2年生のときに読んで、感銘を受け、いまでも蔵書している。
西村氏は、ソ連がフィンランドに突如攻め込み、「ソフィン戦争」を起こし、続いてエストニア、ラトビア、リトアニアの「バルト3国」に侵略し、一夜にして全土を蹂躪し、占領した様子をよく描いている。このなかでいまでも印象的だったのは、以下の記述である。
「激しい軍隊の抵抗もなく、麗しい民間防衛団の防戦もなかったということであり、只僅かにエストニアにおいて、ターリンの士官学校の生徒達は、大挙して此のソ連軍に抵抗したが、ソ連の戦車の威嚇にあって、最後は降伏の余儀なきに到ったということである。このようにして脆くも1日にしてついえ去った3国の運命は、いとも憐れを留めるものである。然し最初にも説明した如く、もともと此の国は隣邦の強大なる力の前には、降伏することが従来からの習慣であったのであろうから、これも予定の行動かも知れない」
バルト3国は近隣の強国から攻められてきた国であり、たとえばエストニアのある町の土産物店で当時、エストニア国旗として「9つの国旗」を売っていたという。占領されるたびに新しい国旗ができたのである。しかし、征服者も、やがて時がすぎれば衰退して、撤退して行った歴史があり、バルト3国の人々は、「降伏」を一つの習いとしていた。だが、ソ連が侵攻してきたときは違っていた。3国の人々は、「根こそぎ」、シベリア送りにされたからである。この旧ソ連の民族性やスターリンの凶暴性については、日本の歴史教科書でも正確に記述する必要がある。
ソ連がロシアに変わり、ロシアのプーチン大統領は、EU(欧州共同体)に加盟したがっているという。だが、EU25か国は、「ロシアだけは加盟させない」と固く心に決めているそうである。スラブ民族の怖さを忘れられないのであろう。
大東亜戦争(太平洋戦争)終結後に生まれた「戦争を知らない世代」には、まったく記憶にないことだが、モスクワで開かれた「 対独戦勝60周年式典」のテレビ映像を見ていると、原爆投下間もない広島市内や、B29に波状攻撃され、焼夷弾を雨あられのように落とされて、旧軍港・呉市内の廃墟や防空壕跡などの風景が、まるで昨日のことのように蘇ってきた。
祖父母や両親たちが、呉市内のあちこちに焼け焦げた死体がゴロゴロしていたという話をしていた。
自衛隊創設と同時に入隊し、後に海上幕僚長や統合幕僚会議議長にまで上りつめた矢田次夫海将が、呉湾に浮上していた潜水艦にいて、北方の灰が峰から波状攻撃してくるB29に対して、勇敢に機関銃で応戦し、ついに耐えきれなくなり、「沈座」したという武勇伝なども久し振りに思い出した。
日本人の多くは、「日本に共産主義革命が起きれば、政治家や財界人、経済人、警察官などは皆捕まり、シベリア送りにされる」という噂に恐怖していたものだ。共産主義に対する恐怖は、日本人のなかでは、いまでも根強くある。
戦前、満州国総務庁官房に勤務し、戦後、逮捕され、帰国して拓殖大学海外事情研究所に務めた佐藤慎一郎先生が、「毛沢東の運命-毛沢東に見られる人間学」という論文に、「事実の中にのみ、真実の歴史がある」として、次のように述べている。
「レーニンは、彼のすべての敵を殺した。スターリンは、彼のすべての敵と多くの友人を殺した。毛沢東もまた、彼のすべての敵だけでなしに多くの同志を殺している。とくに同郷の親友であり、革命の同志であり、そして国家主席たる劉少奇を、最大の敵として、なぶり殺しにしたのである。野獣には大自然の摂理があり、自らルールがある。毛沢東にはルールはない。あるものは権勢欲からくる残忍さだけである。私は毛沢東の親密な戦友林彪副主席が、数々の例証を挙げたうえで毛沢東を定義して『彼は一個の懐疑狂であり、虐待狂である』(1972・1・13、中共中央文件、4号。『 571工程紀要』)と断定した言葉を思い出して慄然とした」
毛沢東は、国共内戦、文化大革命などの権力闘争を通じて、数え切れないほどの同志や同胞を殺している。これは、紛れもない歴史的事実である。日本と中国は、これから「歴史の共同研究」を行うことで合意しているが、戦後史の研究において、毛沢東の悪行も正しく歴史認識して、その成果を小中高校の教科書に正しく記述できるだろうか。歴史のつまみ食いは許されない。
もう一つ、忘れられない著作がある。「北欧諸民族の祖国愛」(昭和39年10月3日、日本民主協会刊)という本だ。著書は西村敏雄・元陸軍少将(第14方面軍(山下兵団)参謀副長、大本営中央特殊情報部長)で、戦前、フィンランド・スウェーデン各公使館付武官を務めている。私は、この本を高校2年生のときに読んで、感銘を受け、いまでも蔵書している。
西村氏は、ソ連がフィンランドに突如攻め込み、「ソフィン戦争」を起こし、続いてエストニア、ラトビア、リトアニアの「バルト3国」に侵略し、一夜にして全土を蹂躪し、占領した様子をよく描いている。このなかでいまでも印象的だったのは、以下の記述である。
「激しい軍隊の抵抗もなく、麗しい民間防衛団の防戦もなかったということであり、只僅かにエストニアにおいて、ターリンの士官学校の生徒達は、大挙して此のソ連軍に抵抗したが、ソ連の戦車の威嚇にあって、最後は降伏の余儀なきに到ったということである。このようにして脆くも1日にしてついえ去った3国の運命は、いとも憐れを留めるものである。然し最初にも説明した如く、もともと此の国は隣邦の強大なる力の前には、降伏することが従来からの習慣であったのであろうから、これも予定の行動かも知れない」
バルト3国は近隣の強国から攻められてきた国であり、たとえばエストニアのある町の土産物店で当時、エストニア国旗として「9つの国旗」を売っていたという。占領されるたびに新しい国旗ができたのである。しかし、征服者も、やがて時がすぎれば衰退して、撤退して行った歴史があり、バルト3国の人々は、「降伏」を一つの習いとしていた。だが、ソ連が侵攻してきたときは違っていた。3国の人々は、「根こそぎ」、シベリア送りにされたからである。この旧ソ連の民族性やスターリンの凶暴性については、日本の歴史教科書でも正確に記述する必要がある。
ソ連がロシアに変わり、ロシアのプーチン大統領は、EU(欧州共同体)に加盟したがっているという。だが、EU25か国は、「ロシアだけは加盟させない」と固く心に決めているそうである。スラブ民族の怖さを忘れられないのであろう。