中国共産党の北京政府は「覇道政府」、日本は「王道国家」であることをしっかり肝に命じるべきだ

2005年05月25日 14時55分44秒 | 反日問題
中国副首相帰国、これ以上のコメントは生産的でない=官房長官 (ロイター) - goo ニュース

 いまの北京政府からは、戦後の日本に見られた「傷痍軍人」の「乞食姿」を思い出す。東京・渋谷のガードの下あたりで、白衣を着て、アコーディオンを弾きながら、「軍歌」を哀しそうな声で歌っていた、あれである。「もういい加減にしなさい」と苦言を呈するとカッとなって怒ったりしたものだ。呉儀副首相の「ドタキャン」からどうしても、「傷痍軍人」の「乞食姿」が脳裏から離れない。
 ところで、日本国民は、日本としての正しい思想・哲学を精神的背骨(モラル・バックボーン)に筋金として打ち込んでおかなくてはならない。
 その基本は、「王道を歩む」ということである。「王道・覇道」という言葉は、中国の宋代の哲学者、邵康節(しょうこうせつ・易に精通し、孔子廟に祀られた人)が深淵な哲理に基づいて到達した学説の重要な「キーワード」である。
 東洋哲学者・安岡正篤先生がこれを、次のように図解している。
 道→化→自然→聖→皇
 ↓ ↓ ↓  ↓ ↓
 徳→教→譲-→賢→帝
 ↓ ↓ ↓  ↓ ↓
 功→勧→治-→才→王・・・ここまでを「王道」という。
 ↓ ↓ ↓  ↓ ↓
 力→率→争-→術→覇・・・覇道

 王道とは、「皇・帝・王」の道を志向するものをいう。王者が行う政治のことである。
 「王者が、天地の私心なきが如し、一不義を行いて天下を得るも為さず」(近思録・観聖賢)

 覇道とは、「権謀術数を弄して民を『率』いてゆく人間」すなわち「術者」の道を志向するものをいう。「術者」は、自分の権謀術数を力としてたのんで、人間の信用をアテにしない。力による政治を行いながら、表看板だけは、素晴らしい大義名分を振りかざしている者を「覇者」という。
 毛沢東は、「覇道」を好んだ革命家であった。決して「王道」は歩まなかったのである。それは、毛沢東の「政権は、銃口から生まれる」とか「世界革命は、暴力によってのみ達成される」などと言った演説や論文からも明らかである。
 毛沢東は、「力の哲学」を振り回し、数千万人もの中国人民を虐殺してきたのである。文化大革命のときは、さらに多くの中国人民を殺した。(このことは、日中両国の歴史教科書にきちんと明記する必要がある。それが「正しい歴史認識」というものである)
 「覇道」とは、「力の政治」のことであるから、中国人民は、形の上だけは、確かに服従した形はとるけれども、その内心においては、とっくに「離反」し、「反発」している。天下の人民が、心服していないということ自体、それはすでに「民心」を失っている。 中国共産党の一党独裁の「力の政治」は、毛沢東時代はもとより天安門事件を経て、すでに破綻していると見なくてはならない。
 これが、「反日デモ」「反日暴動」という歪な形で急激に噴出してきている。実態は、「反政府デモ」「反政府暴動」と断定してよい。
 「民心」を失った北京政府の政権基盤は、極めて脆く、政権の先はもうすでに見えている。中国各地で「農民暴動」や「学生デモ」などが起きており、これが全土に広がるといまの中国共産党の指導者はもとより、北京政府の要人たち、人民解放軍の高級軍人たちの生命・身体・財産は、危機に瀕してしまう。
 だから、北京政府は、人民への「弾圧」に躍起となり人民の視線を国外、とくに「日本」に向けざるを得ないのである。
 毛沢東が進めてきた共産主義革命思想に基づく「覇権主義」は、北京政府の「覇権戦略」「覇権外交」という形として現実に現れ、東アジア、中央アジアから、中近東、太平洋、中南米、アフリカにも拡大し、各地で摩擦を起こし始めているのである。
 呉儀副首相が、小泉首相との会談を「ドタキャン」して、モンゴルに飛んだのもモンゴルの新大統領誕生という「中央アジア戦略」に急な変化が生まれたためで、「ロシア」との覇権争いの一現象である。モンゴルは戦前から、「親日的な国」であり、日本の支援を求めているので、日本は小泉首相のように悠然と構えていればよいのである。
 だが、小泉首相はじめ日本国民の多くは、重大な錯覚に陥っていることに早く気づく必要がある。
 それは、中国が「儒教の国」ではないということである。孔子が理想的な政治として目指していたのは、「王道」であったのに対して、いまの中国共産党による一党独裁の北京政府は、「マルクス・レーニン主義」を中国化した「毛沢東思想」に基づく、あくまでも「覇道政府」である。
 従って、小泉首相が、「罪を憎んで人を憎まず」と言って孔子の名言を引き合いに出して、「靖国神社」に祀られている東条英機元首相ら「A級戦犯」をも含めて「御霊」に哀悼の誠を捧げるのだといくら説明しても、胡錦濤国家主席以下、北京政府の指導者たちを説得し、理解を得ることは、絶対と言っていいほど不可能なのである。
 もし万が一、小泉首相が、目先の状況を少しでも好転させようと思って、「靖国神社公式参拝」を取り止めたとしたら、中国の「覇道政府」の軍門に下ったことになり、それ以後、北京政府の言いなりにならざるを得なくなる。
 たとえば、「新幹線をつくれ」「新幹線の設計図をタダでよこせ」「ODA(政府援助)を続けろ」「コピー商品について、ガタガタ言うな」「北朝鮮にカネをくれてやれ」などと次から次に要求を続けてくるに違いない。
 この意味で、4年前に小泉首相が、靖国神社公式参拝の日取りを「8月15日」ではなく、「13日」に繰り上げたのが、大変な間違いであった。今年は、何としても「8月15日」に参拝して、「王道の姿」を見せつけねばならない。日中関係は、「日本の王道」と「中国の覇道」との対決なのであり、「王道」は負けてはならない。
 それにしても、朝日新聞をはじめ、報道各社やマスコミ人、あるいは、鳥越俊太郎のようなコメンテイターが、この「王道・覇道」の関係を知らず、「覇道」の巣窟である中国共産党と「覇道政府」である北京政府に味方し、小泉首相を非難する発言を繰り返しているのは、はなはだ理解に苦しむところである。それほど「覇道」が好きなのかと疑問に思う。
 「平和国家・日本」は、戦後60年の実績を踏まえ、これからも未来永劫、「王道国家」の道を驀進すべきである。日本国民は、中国人民の「民心」が離れつつある中国共産党と北京政府が崩壊とようと、中国で内乱が再び勃発しようと、「他人事」としてを黙って見ていればよいのである。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする