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『復活の日』小松左京 1964年

2023年02月15日 03時03分00秒 | 日々の出来事
『復活の日』(ふっかつのひ)は、小松左京が1964年に書き下ろしで発表した日本のSF小説である。また、同作を原作に、(旧)角川春樹事務所とTBSの製作により、1980年6月に東宝系で公開されたSF映画である。英題は“Virus”。



概要[編集]
殺人ウイルスと核ミサイルの脅威により人類死滅の危機が迫る中、南極基地で生き延びようとする人々のドラマを描いた作品。バイオテクノロジーによる破滅テーマの本格SFとしては日本ではこれが嚆矢(こうし)になった。執筆当時の香港かぜの流行、東昇の『ウイルス』、カミュの『ペスト』『戒厳令』、南極には風邪がないと記された[要出典]岩波新書の『南極越冬記』、また冷戦時代の緊張下で同じく人類滅亡を扱ったネビル・シュートの『渚にて』を下敷きとしている[1]。本作で地震について調べたことが、代表作『日本沈没』にもつながったという[2]。そして、福島正実の企画による早川書房の初の日本人SF作家による長編シリーズ「日本SFシリーズ」の第1巻となった[3][4]。 
小松にとっては『日本アパッチ族』(光文社)に次ぐ長編第2作であり、ハードSFの書き下ろしとしては第1作といえる[5]。題名は当初は考えておらず[註 1]、掲載するに当たって急遽思いついたのだという。 
SF作家の堀晃は、日本のSFのレベルを引き上げたと高く評価した[6]。評論家の石川喬司は、細菌兵器による終末テーマのSFの代表的な作品の一つとして扱っている[7]。 
2009年には、新井リュウジ[註 2]による児童向けのリメイク作品として、『復活の日 人類滅亡の危機との闘い』がポプラ社から出版された(ISBN 978-4-591-11137-6)。時代を2009年以降の21世紀初頭に移しており、それに伴うものや児童向けを理由とする改変がされているが、大筋では原作のストーリーそのままである。新井は「児童向けの翻訳」であるとうたっている。 


小説あらすじ[編集]
196X年2月、イギリス陸軍細菌戦研究所で試験中だった猛毒の新型ウイルス「MM-88」が職業スパイによって持ち出される。スパイの乗った小型飛行機は吹雪に遭ってアルプス山中に墜落し、ウイルス保管容器は砕け散る。春が訪れて気温が上昇するとMM-88は大気中で増殖を始め、全世界に広まった。当初は家畜の疫病や新型インフルエンザと思われたが、心臓発作による謎の突然死が相次ぎ、おびただしい犠牲者を出してなお病原体や対抗策は見つからず、人間社会は壊滅状態に陥る。半年後、夏の終わりには35億人の人類を含む地球上の爬虫類・両生類・魚類・円口類を除く脊椎動物が、ほとんど絶滅してしまう[註 3]。 

生き残ったのは、南極大陸に滞在していた各国の観測隊員約1万人と、海中を航行していたために感染を免れた原子力潜水艦[註 4]ネーレイド号やT-232号の乗組員たちだけであった。過酷な極寒の世界がウイルスの活動を妨げ、そこに暮らす人々を護っていたのである。南極の人々は国家の壁を越えて結成した「南極連邦委員会」のもとで再建の道を模索し、種の存続のために女性隊員16名による妊娠・出産を義務化したほか、アマチュア無線で傍受した医学者の遺言からウイルスの正体を学び、ワクチンの研究を開始する。 

4年後、日本観測隊の地質学者の吉住(よしずみ)は、旧アメリカアラスカ地域への巨大地震の襲来を予測する。その地震をホワイトハウスに備わるARS(自動報復装置)が敵国の核攻撃と誤認すると、旧ソ連全土を核弾頭内蔵ICBMが爆撃することや、それを受けた旧ソ連のARSも作動して南極も爆撃されることが判明する。吉住とカーター少佐はARSを停止するための決死隊としてワシントンへ向かい、ホワイトハウス地下の大統領危機管理センターへ侵入するが、到着寸前に地震が発生したためにARSを停止できず、その報復合戦で世界は2回目の死を迎える。しかし、幸いにも南極は標的とならなかったうえ、中性子爆弾の爆発によってMM-88から無害な変種が生まれ、皮肉にも南極の人々を救う結果となる。 

6年後、南極の人々は南米大陸南端への上陸を開始し、小さな集落を構えて北上の機会を待っていた。そこに、服が千切れて髪や髭はボサボサという、衰弱した放浪者が現れる。それは、ワシントンから生き延びて徒歩で大陸縦断を敢行してきた吉住だった。精神を病みながらも仲間のもとへ帰ろうとする一念で生還した吉住を人々が歓呼で迎え、物語の幕は下りる。 



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アインシュタイン「人生最大の失敗」の驚くべき顛末〈dot.〉

2023年02月15日 00時03分44秒 | 科学のはなし
アインシュタイン「人生最大の失敗」の驚くべき顛末〈dot.〉




誰もが知る天才・アインシュタインには「人生最大の失敗」があったという。

彼を長年にわたって悩ませた「失敗」の驚くべき顛末とは――。その逸話を宇宙物理学者・須藤靖(東京大学教授)の著書『宇宙は数式でできている』(朝日新書)より抜粋して紹介する。

2/24/2022

*  *  *
■アインシュタインの「人生最大の失敗」

 アインシュタインは、現在アインシュタイン方程式として知られている一般相対論の基礎方程式に基づいて宇宙がどのように振る舞うのかを計算した結果、無限の過去から無限の未来まで、ずっと同じ状態のままであり続ける静的な宇宙はあり得ず、宇宙は必然的に時間変化することを「発見」しました。

 今の我々であれば、「宇宙が時間変化しても別にいいじゃん」と簡単に納得することでしょう。しかし、その当時、特に西欧においては「神が創られた宇宙は完璧なものであり、それが時々刻々変化するなどもってのほかだ」と考える人々が大多数でした。このように時間変化する宇宙という結論は、アインシュタインにとっては悩みの種でした。

 そこで彼は、一般相対論が静的宇宙解を持つように、もともとのアインシュタイン方程式に新たな項を付け加えました。それはアインシュタインの宇宙項と呼ばれ、それに対応する定数Λ(ラムダ)は宇宙定数と呼ばれています。

 ダーウィンの進化論を学校で教えることを禁止した州があったり、今でも国民の4割が進化論を信じていないとされたりする米国の例を考えれば、このような宗教的な偏見が科学に影響を与えることは、決して過去の話ではありません。そのような偏見とはほぼ無縁な日本は世界的に珍しいというべきなのです。

 しかしながら、このΛ項を導入すべき積極的理由がない限り、勝手にそれを追加してしまうと一般相対論の美しさを減じてしまう、とアインシュタインは考えました。古くからの宇宙観と物理学理論の美しさの間で、アインシュタインはとても悩んだのです。

 こうして宇宙は時間変化してはならないと考えたアインシュタインは、1917年に渋々宇宙項を追加することに決めたのです。






例えば、1995年には米国のローレンス・バークレー国立研究所のソール・パールムターのグループが、遠方の超新星を用いた観測から、宇宙定数は存在しないとする論文を発表しました。その年に京都で開催された国際天文学連合総会の際のシンポジウムで、パールムター氏が行った講演に対して、私は「理論的には宇宙定数が存在するという間接的証拠が積み上がっているが、あなたのグループの観測結果はどこまで確実に宇宙定数を否定していると考えているのか」と質問しました。これは、その当時、宇宙定数の存在を支持していた日本の理論研究者の疑問を代表したものだったように思います。

 実際その後、彼のグループ、及びハーバード大学のブライアン・シュミットとアダム・リースたちのグループは、互いに独立に多くの観測データを追加し、それらに基づいた解析結果から、宇宙膨張は減速ではなく加速していると結論する論文を1998年に発表しました。さらにその後の観測が積み上がるにつれて、その結果はより確実になりました。この宇宙の加速膨張の発見によって、パールムター、シュミット、リースの3名は、2011年のノーベル物理学賞を受賞しました。そして、その加速膨張の原因としてもっとも有力視されているのが、宇宙定数なのです。

 ところで、その当時の状況を指して、「彼らの発見は、それまで予想もされていなかった宇宙定数の存在を示した衝撃的な結果であった」と述べる人も多くいるようですが、これは明らかな間違いです。意図的に話を盛っているのか、あるいは単にその前後の研究の流れを知らないだけなのかはわかりません。

 しかし先述のように、少なくとも私の周りの研究者たちは、宇宙定数が存在しないとした1995年のパールムターの最初の論文にこそ驚いたものの、それを自ら否定した1998年の論文の結果に対しては、「やっぱり予想通りだったね」といった反応だったと思います。




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