【戦艦大和の真実】沈没の原因についてポツリと「あれは自爆だよ」、ビリヤード場で号泣した元乗組員…元週刊誌記者が明かす取材秘録(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
【戦艦大和の真実】沈没の原因についてポツリと「あれは自爆だよ」、ビリヤード場で号泣した元乗組員…元週刊誌記者が明かす取材秘録
8/15(火) 6:01配信
「Iさんは号泣にこそ至りませんでしたが、じっと涙をこらえながら話してくれました。そして最後に、沈没の原因についてポツリと、
『あれは自爆だよ。46センチ砲の巨大な砲弾が傾いて倒れ、信管が触れて大爆発したんだ……』
特攻作戦の立案者は誰か
ところで、大和特攻作戦の立案責任者は誰だったのか。こちらの取材班は、特攻決定が昭和20年4月5日だったことを突き止めた。沈没のわずか2日前である。当時、慶應大学日吉校舎の寄宿舎が連合艦隊司令部となっていた。そこで朝9時から「菊水一号作戦」会議が開催され、11名の幹部が出席していたという。取材班は次々とその11名を訪ね歩いたが、すでに逝去している人も多かった。
「しかし、作戦乙担当参謀として会議に出ていた千早正隆元中佐(1910~2005)がお元気で、細かく証言してくれています」(森重さん)
それによると、大和はいったん佐世保に回航させて、米機動部隊を邀撃(待ち伏せ攻撃)することが内定していたのだという。ところが、米軍の動きのほうが早く、準備をしているうちにB29の大編隊が九州方面に襲来。北九州が空襲を食らってしまう。邀撃作戦は一瞬にして崩壊した。
そして上述のとおり4月5日朝9時の会議となるのだが、
《「大和の特攻は、この時、神(重徳=かみ・しげのり)先任参謀の口からポンと飛び出してきたのです」》(千早元中佐。記事本文より)
神参謀は優秀で頭の回転が速いことで知られていた。
《しかし、この時の「大和」の特攻にはさすがの参謀たちも驚いたらしい。/言下に、「燃料はどれだけあるのか」と傍らの関政一補給参謀に質問を発したのは千早参謀だった。関参謀の返答は、「三千トン。帳簿上はこれぐらいしかありません」/「私は即座に、“それでは片道になる。いかに九死に一生も得ない作戦とはいえ、片道攻撃では問題がある”と反対意見を述べ……(以下略)」》(記事本文より)
ところが、昼近くになって、千早元中佐は異様な歓声を聞く。
《「もの凄い大きな声で“決まったぞォ”と叫んでるんですよ。飛んで行って“燃料はどうなったんですか”と聞くと、関参謀が“呉にいる小林(儀作)参謀が帳簿外の油を搔き集めたら一万トン出てきました”という」》(記事本文より)
こうして大和の沖縄特攻が決まったのだが、その後もこの「燃料問題」は、果たしてどれだけ積まれたのか諸説が入り乱れることになる。
戦艦大和の大特集を上回る出来事
さて、こうやって様々なコメントや資料が集められ、いよいよ入稿前夜である日曜日の夜、記者たちは続々と編集部に戻ってきた。これから朝までかけて、手分けしながら10頁の記事を書くことになる。森重さんや江木さんも、呉から最終に近い新幹線を乗り継いで、ヘトヘトで戻ってきた。
ただ、記事の主眼でもあった「大和の特攻・沈没を天皇が知っていたのか」については、かなりギリギリまで取材が続いた。
「たしか、最後の晩、かなり遅くなってから、『だいたいわかったよ』と言いながら戻ってきたベテラン記者がいました」(森重さん)
その記者によれば、3月29日に軍令部総長・及川古志郎大将(1883~1958)が最後の総攻撃を天皇に奏上した。その際、天皇から「航空部隊だけの総攻撃なるや」と御下問があった。これに対して及川大将がつい「艦艇も総攻撃に加わります」と言ってしまった。これが契機となって、大和を中心とする海上特攻作戦に発展したのだという。このことは連合艦隊の作戦参謀だった三上作夫元中佐(1907~1996)が証言してくれた。
つまり天皇は、大和の特攻に関して知っていた。そして沈没については、当時、外務大臣秘書官として最高戦争指導会議事務局に出向していた加瀬俊一氏(1903~2004)が、こう証言してくれた。
《「たぶん(木戸幸一内大臣の秘書官長だった)松平(康昌)侯(爵)より私のほうが情報が早かったので、私がそれを松平侯に伝え、松平侯が木戸内相に、そして内相が陛下にお伝えしたのではかなろうかと思います」》(記事本文より)
というわけで、この無謀な大和の特攻作戦と沈没は、大元帥である天皇の耳にも入っていたことが判明した。
かくして明け方に10頁分の原稿が書きあがり、松田デスクがまとめて印刷所に入稿。午後にゲラが出て、記者たちは寝不足の目をこすりながら推敲、校了に持ち込んだ。
「記事は、大和の特攻を提案した神大佐の最期の姿で締めくくられていました」(森重さん)
《「神さんは北東方面艦隊の参謀長で終戦を迎えたんですが、終戦処理のために上京し、再度、北海道の千歳に帰る途中、乗機が津軽海峡に不時着しましてね。ただ一人、空を見上げながらブクブクと沈んでしまったといいます。泳ぎの名人で、しかも他の乗員は全員助かったんですがねえ。私はやはりこれは一種の精神的自殺だったと思います」》(千早元中佐。記事本文より)
10頁の大特集《天皇は知っていた 誰が「大和」を沈めたか》は、こうして出来上がった。発売は1985年8月8日(木)。そして、初めての編集部が一斉の夏休み! 戦艦大和の取材で疲労困憊だった記者たちは、ひさびさの家族サービスや帰省で夏休みを満喫していた。
「ところが、8月12日の夜、自宅でビールを飲みながらテレビで『クイズ100人に聞きました』(TBS系列)を見ていたら、電話がかかってきまして……」(森重さん)
当時、ケータイもスマホもまだない。電話は先輩記者からだった。
「羽田発大阪行き、日航123便の機影がレーダーから消えたぞ」
翌週の週刊新潮は《震撼「日航機墜落」》と題する大特集を組むことになる。それが「戦艦大和」を上回る15頁になるとは、誰も想像していなかった。
註:戦艦大和や当時の戦況に関する記述は、すべて「週刊新潮」1985年8月15・22日合併号に基づくもので、その後、新たな事実が判明した事項もあります。
デイリー新潮編集部
新潮社
デイリー新潮
初のお盆合併号に大型企画
悲劇の巨大戦艦として伝わる大和(日本語: 神田 武夫English: Hasuya Hirohata, Public domain, via Wikimedia Commons)
78回目の終戦記念日がやってきた。もはや80歳代後半以上でないと、1945(昭和20)年8月15日を記憶している人はいない。
【写真】当時の週刊新潮の広告

かつて総合週刊誌は、この季節になると、戦中戦後の日々を回想する「終戦特集」を組んでいた。1956(昭和31)年に創刊された出版社系では日本初の週刊誌「週刊新潮」も例外ではなかった。
ところが、1985(昭和60)年の夏は前年までとは違った。というのも、初めてお盆に1号休んで「合併特大号」をつくることになったのだ。
元編集部員の森重良太さん(65)が回想する。森重さんは当時27歳だった。
「それまで週刊新潮は、年末年始に1号休んで合併号にする以外は、お盆の時期も発行していました。ところが、それでは雑誌を配本する運送業者がお盆休みをとれない。そこで、取次会社からの要請もあり、1号休むことになったのです」
これぞ元祖「働き方改革」である。しかし、お盆休みに2週間かけて売るとなれば、それなりの目玉記事が必要だ。帰省先で、旅行先で、あるいは新幹線の車内で、ゆっくり読める記事といえば、やはり「終戦特集」しかない……。今の読者諸氏は笑うかもしれないが、当時はまだ戦後40年。戦前・戦中派、占領期の経験者が当たり前のように社会で活躍していた時代である。その種の記事は、十分に需要があったのだ。
「実は、その合併号のために、独自の終戦特集が準備されていました。かつてGHQ(占領軍)高官たちのパーティで接待役を務めた旧華族のご夫人方が、まだ70歳代でみんな健在でした。ついては彼女たちに“占領『鹿鳴館』時代”と呼ばれた接待の実態や、その後の人生を語ってもらおうという企画です」
それがのちに《「GHQ」高官の取巻きだった「上流夫人」七人の四十年》と題する記事になるのだが、これはせいぜい5頁くらいにしかならない。合併号は増頁になるので、もっと大きな記事が必要だ……。そこで当時の週刊新潮担当役員、“伝説の編集者”齋藤十一(1914~2000)から驚くべき新テーマが降りてきた。
「それが戦艦大和だったのです。全長263m、乗員は竣工時2500人、撃沈時は3332人。人。あんなバカでかい戦艦をつくれと言い出したのはどこの誰か、それ沈めた責任は誰にあるのか、そもそも天皇はその事実を知っていたのか――いわば当時の流行語でもあった『責任者出てこい!』企画です。彼らが今どういう思いでいるのかを聞いてきて、まとめて10頁にしようというのです」
10頁! 火曜日午後の編集会議で部内に戦慄が走った。これから1週間で、下調べ、取材、執筆し、来週の今ごろには校了しなければならないのだ。当時の週刊新潮は、現在よりも小さな文字でギッシリと組まれていた。10頁といえば、図版や広告の分量にもよるが、400字詰め用紙で40枚以上にはなりそうだ。
「恥ずかしながら、『宇宙戦艦ヤマト』なら知っていましたが、戦艦大和となると、沖縄特攻に行く途中、米軍の総攻撃で海に沈んだ巨大戦艦であることくらいしか知識はありません。しかし、そんな大型記事が1週間でできるのか、正直、不安を覚えました」
言うまでもなく、呉の「大和ミュージアム」はまだ開館していない。有名な資料といえば、吉田満(1923~1979)の小説『戦艦大和ノ最期』(創元社、1952年)が筆頭だった。戦艦大和の最後を描いた大作映画『連合艦隊』(1981年)がヒットしていたが、一般向けの資料は、辺見じゅん(1939~2011)のノンフィクション『男たちの大和』(角川書店、1983年)くらいで、ほかは専門的な戦記本ばかりである。戦艦大和に関する大型記事を一般週刊誌で見るなど、まず考えられなかった。
号泣し、話せなくなる生還者
記事の総合デスクは、のちに4代目編集長となる松田宏氏(1941~2018)が務め、その下に2人のデスクがついて3班で書き分けることになった。各班に2~3人の記者が配属され、全部で10人前後の取材班が編成された。週刊誌としては異例の体制である。さっそく別室に移って打ち合わせとなった。
「会議室にそろうと、いきなり松田デスクから記事の全体構成が伝えられました。
【1】戦艦大和の沖縄特攻作戦は、いつ誰が立案したのか。
【2】燃料は本当に片道分しかなかったのか。
【3】最後の沈没の様子はどうだったか。
【4】天皇はこれらの実態について、どこまで知っていたのか。
これらを存命中の当事者に聞いて回って、コメントでつないで10頁にするというのです。ついさっき編集会議で出たばかりのテーマなのに、もう松田さんの頭の中では構成が出来上がっている。しかも、大和の燃料問題などにも詳しく、いくら戦前生まれとはいえ凄い知識だと驚きました」
森重さんは「大和の最後」の取材担当となった。
「大和が建造された呉や広島に元乗組員の存命者がいるはずだから、沈没の様子を聞いて来いと指示され、同僚と2人で新幹線に飛び乗りました。つらい取材になりそうな予感がしましたが、特攻や沈没の責任者に会ってこいと言われなかっただけホッとしました。幸い遺族や元乗組員たちの連絡会があり、そこの紹介で何人かの存命者に会うことができました」
このとき森重さんとともに広島・呉に向かったのは、のちに「小説新潮」編集長を務める江木裕計さん(63)だった。
「覚えています。夏の瀬戸内海沿いは凪(なぎ)と呼ばれる無風状態の蒸し暑い気候で、とにかく暑かった。汗ダラダラで広島や呉を回りましたが、なかでも忘れられないのは砲員兵だったOさんの取材です」
インタビューに訪れたのは、呉の古いビリヤード場だった。
「Oさんは戦後、ビリヤード場を経営していたのですが、店内へ入ると壁一面に巨大な戦艦大和の絵がかかっていたんです。まるで壁画のようで厳粛な雰囲気でした。その絵の前で、若者が平然とビリヤードに興じていた。ちょっと不思議な光景でしたね」
Oさんは大和の巨大絵画を背に、沈没の様子を1時間余にわたって語ってくれた。沖縄特攻に向かった大和は、豊後水道を抜けて外洋に出たとたん米軍の総攻撃を受け、あっという間に満身創痍となる。Oさんはこう語っている。
《「後部飛行甲板が爆撃されて火災が起きていたのでそれを消しに行けといわれ、表に出ました。出てみると、傾いた左舷はすでに水につかっていて、足のももまで水が来ていました。反対側の高く上った右舷の方は、出て来た人たちで鈴生りのありさまだった。見る見るうちに傾きが急になり、腹まで水が来たので、自然と海へ入って泳ぐようなかたちになりました」》(記事本文より)
Oさんのコメントは、ここで終わっている。
「実はOさんは、ここで号泣しはじめ、話せなくなってしまったのです。70歳代だったと思いますが、店の主人が声をあげて泣きはじめたので、店内にいた若者たちもキューを抱えたまま何事かとびっくりしてこっちを見ていました。わたしもどう声をかけていいものか、じっと相対するだけでした」
一方、森重さんは、第二艦隊の副官として大和に乗っていたIさんに会った。
《「第一艦橋は右半分を第二艦隊司令部が、左半分を大和司令部が使っていた。私の前に森下参謀長。左側は前が茂木航海長、後ろが花田掌航海長。沈む前、この二人はもう足を羅針儀に縄で縛りつけていた。ぼくは飛び込むも何もないよ。もう船がドンドン傾いて自然と海へ入っちゃって……」》(記事本文より)
「Iさんは号泣にこそ至りませんでしたが、じっと涙をこらえながら話してくれました。そして最後に、沈没の原因についてポツリと、『あれは自爆だよ。46センチ砲の巨大な砲弾が傾いて倒れ、信管が触れて大爆発したんだ……』と語ったのが忘れられません。とても寂しそうでした」