中小企業のES=人間性尊重経営のパイオニア/有限会社人事・労務 ES組織開発・人事制度改革ブログ

社員の幸せ、職場の幸せを基準に経営を、社風を変えたいと本気で思っている社長さん・人事担当者の方へのエールをあなたへ!

図書館が街の出島に話題の武雄図書館へ。

2022-05-09 18:07:57 | 日記

唐津への時間がなく民藝の里を体感する機会は次回にとっておき、コミュニティデザインでしばしば話題になる武雄の図書館へ大人の社会見学へ。

麦の生産でこのあたりは有名とだけあって、のどかな風景が続く。

ここに図書館があっても利用する方がいるのかなと疑問に感じながら車を走らせる。

忽然と沢山の車がとまっている場所が見えてきた、おぉここか!と。建物がまず何より美しい。

そして学生や若い人がテラスで食事を楽しむ。ここだけ異空間だ。

まさにここはローカルから都市へとつながる地域の特別な場所。
たぶんこの図書館が出来ることは、街全体を揺るがす大事件だったろうと想像がつく。
現地に行って感じた。

それを確かめるべく色々調べてみたが、やはり民間が図書館を運営すると言うことに対して住民の中で図書館のあり方について反対の意見もあったようだ。自分達の馴染みの居場所がファッショナブルになる喪失感や図書館の中に本屋が併設されて商業施設の兼ね合いが出てしまったことに対する違和感。

なにより地域の郷土資料や文献を扱うスペースが縮小されてしまったことなどこれは図書館ではないと、文化的な側面も指摘されていた。

しかし一方で、この新しい図書館のおかげで自身が生きる希望を持った若者や図書館に、よそ行き姿でおしゃれをして行こうと変容していく者や、ここから新しい社会に飛び込もうと学ぶ意欲がわいた若者たち。

そして何も誇るべきものがなかったわが街に、図書館があるという誇りが出来たことなど、沢山の素晴らしい側面もマイナス面以上に指摘されている。

私はまさに出島のような場所だなあと感じた。
出島は何かと事件が起き話題に尽きない。
江戸の社会でも常に危険な場所であると同時に可能性を秘めた場所であった。
しかしそれをウェルビーイングの視点でみると、
江戸時代の出島、織田信長の楽市楽座のような時空は、異質をうまく取り込みながら社会を元気にしていくそんな場所だなあと。

夢や希望を持った若者が出島に訪れ日本を変えていく。鎖国政策のなか同質性が高まった当時の江戸にとって出島は可能性の玄関口だったに違いない。

リスクはストレスになり確かに行き過ぎると社会不安をもたらし社会が精神的な病に陥る。
しかし程よいリスクは社会にイノベーションを起こし生きる希望や未来への可能性を与える。

会社も同じではないだろうか?

ウェルビーイングな視点から会社の中にリスクを恐れずに地域や他社とつながる出島、コミュニティをあえて設ける。

弊社も2つの出島を持ちコミュニティ経営を推進しているが、出島同志が結びつき職場にうねりをもたらし、職場そして日常が活気づく。

江戸の若者が郷土を離れ出島を旅し異文化に触れまた郷土にもどり少しずつ社会を変えていくように、私達の職場も毎日誰かが出島に行き新しい文化や気付きを職場にもたらす。

沢山の住民が誇りや自身の変容、日常への張り合いや可能性を武雄図書館に見出したというこの時空の存在は、
改めて出島のウェルビーイング的役割を感じる良い場所であった。


オリンピックメダルのオークションから考えたこと 

2021-09-14 19:26:41 | 日記
人事・労務の荒木です。

私は毎朝、NHKラジオニュースを聞きながら台所仕事をしています。先日の深読みコーナーでは、メダルの値段、というトピックが扱われて、私は料理をしながら興味深く聞いていました。

先日閉幕した東京オリンピック。女子やり投げで銀メダルを獲得したポーランドのマリア・アンドレイチク選手がメダルをオークションに出品し、ポーランドのコンビニストアチェーンのジャプカ社が12万5,000ドルで落札した、というニュースが話題になっているそうです。

ここまでの情報を聞いた時点での、瞬発的に私の心の中での反応はこうでした。「そこに市場があるのなら、個人はどんなふうに利用してもいいと思う。動機がどうあれ、個人の自由な経済活動は “見えざる手”に導かれて結果的には一定の調和をもたらす、って、アダム・スミスも言っているし。」



と、そこにバスケ部の部活に出かける高校生の次男が起きてきたので、さっそく投げかけてみました。「オリンピック選手が銀メダルをオークションに出したんだって。どう思う?」

彼の即座の反応は、「えーっ⁉ あり得ない!そのために辛い思いをしながら努力してきたのに、その象徴のメダルを手放すなんて考えられないし、第一、売るという発想が僕には断じて無い!」でした。

「でも、銀メダル自体は単なる物質で、それが手元になくたって、銀メダルをとったという事実は変わらないんじゃない?」と、私。

「いやいやいや。僕はスポーツをやっているからかもしれないけれど、メダルは思いが詰まったロマンで、かけがえないもの。プライスレス! 売るなんて絶対にあり得ない。お母さんは真剣にスポーツをやったことがない文科系だから分からないんだよ。」
・・・なるほど、思いが詰まったロマンですか。だとしても、ロマンの市場があるのなら、私はそこでロマンを売ってもいいと思いますけれどね、買う人がいるのならば。

こんな会話をしながら再びラジオの音声の続きに集中すると、生後8か月の先天的な心臓疾患のある男の子(アンドレイチク選手と面識はなかったが、ネットで男の子の両親の嘆願を読んだ)の手術費用を捻出したいという決意が出品の動機であること、手術には38万3,000ドルが必要で、その半分は既に集まっていたことが分かってきました。実はアンドレイチク選手自身、3年前に悪性腫瘍の骨肉腫との苦しい闘病を乗り越え、回復し、この東京オリンピックで銀メダルを手にした選手なのです。

ああ、そんな利他的な動機があったんだ、と知れば、“メダルを売る行為”に対する心象は随分と変わってきますが、もとより「動機がどうあれ」という前提を持っているので私の結論は変わりません。

一方の息子は、「手術費のために・・・。そんな動機があったのか。うーん。」と、実に人間らしく逡巡し始めています。

このニュースの顛末としては、ジャプカ社の落札で調達した資金によって、男の子にはアメリカで手術を受けられる見通しが立ち、またジャプカ社は落札後、美しく気高い行動に感動した、というメッセージと共にアンドレイチク選手に銀メダルを返還しました。

アンドレイチク選手の高潔な振る舞いは多くの感動を呼んでいるし、またジャプカ社の対応には称賛の声が寄せられているようです。

ラジオのリスナーの皆さんからも、関係者の素敵な振る舞いに賞賛を寄せる声が続々と届いているようでした。一点、メダルは選手一人でとったものではなくて支える人達みんなでとったものなので、メダルを売却すること自体に対して批判される可能性があることについての覚悟は必要だ、という意見があり、これは鋭い視点だと思いました。

さて、私は、このトピックをふと耳にした時の、自分の瞬発的な反応が淡々としたものであったことをとても面白く感じています。同じ場面に遭遇した時の、私ではない人(今回は高校生の息子)の人間味溢れる即座の反応を観察したことも、私の反応を相対化するにはちょうどよかったと思います。

私の人間味の薄い反応について、後から言い訳のように理屈をつけるとすれば、それはアダム・スミスの『道徳感情論』に因ります。アダム・スミスは『国富論』に先立ち『道徳感情論』の中で、個々人が自由に活動した結果、それでもなお社会がそれなりに秩序だったものになるのだとすれば、そういった秩序を生み出すことができる人間の本性とは一体何であるのか、について論じています。そして人間はどんなに利己的であったとしても、その本性には他人の不幸に関心を寄せ、他人の幸福を自分にとって必要なものと感じる原理があるとして、その一つに人間の共感する能力を挙げています。共感の能力は、今度は自分が他人から共感を得るためには何が必要か、という考えを自分自身に対して促します。こうして人間は、他人からの共感を得るために自分自身の中に“公平な観察者”という基準を形成し、“公平な観察者”から自分の感情や行為が責められないように努力するという、優れた能力を持っていると考えるのです。

だから悪人ばかりではない世の中で、個々人は自分の心に従って自由に動けばよいのです。多様な個人の利己心に基づく自由な競争が、計画されたものではないのに、社会全体で見たときには一つの調和を生み出すのです。

つまり私は、性善説に立ち、そして多様性のある人間の自由な行動の帰結を信じているのです。



最後にメダルのオークションのニュースをもうひとつ。先の東京オリンピックでベラルーシ代表として陸上女子100メートル予選に出場したクリスツィナ・ツィマノウスカヤ選手については、ルカシェンコ政権による弾圧を恐れてポーランドに亡命したことがニュースになりましたが、彼女は亡命先のポーランドで、2019年に獲得した欧州競技大会での銀メダルをオークションに出品したようです。2万1,000ドルで落札されました。出品の動機は、自分と同じように当局から圧力を受けている母国のスポーツ選手を支援する資金に充てたい、と考えたからだそうです。

在宅勤務を始めてから・・

2021-09-03 22:17:53 | 日記

在宅勤務をはじめてから、3か月余りがたった。

会社へ出勤することが週5日から2日~3日にかわり、自分の生活様式も以前と比べると変わってきていると思う。

 

私は片道、2時間かけて、通勤をしている。今の働き方により、確かに物理的な体の負担や通勤のストレスは減ったと思う。

 

ただ、目に見えないストレスを回避しようとしているからなのか・・まず、散歩するようになった。音楽を聴くようになった。雲って流れているのだなと改めて感じることもあった。

今振り返ってみると、ここ4~5年は、本当にそれらをすることや感じることなく、過ごしてきたのだなと少しもったいない気持ちを感じながら歩いている。

 

 

 

さて、私なりにこの意識の変化を分析してみた。

 

散歩に行くことは、一日中家にこもることにより、外部への接触機会の減少というストレスを解消し、また、運動不足により健康を害するのでは?という危機意識からの行動。

 

 

音楽に時間を使うのは、ストレス解消もあるが何より好きだからだと思う。

倉庫に眠っていたギターを久しぶりに取り出して触ってみた。結構基本的なポジションは覚えているのだなと夢中になっていた頃を思い出した。

 

40代後半、やっている人がいるのだろうか?YouTubeを見ると、同じぐらいの年齢の人がガンガンに弾いていた。便利な世の中になったものだ・・、まだまだいけるのではないだろかとの期待。いろいろな意味を含めて、人と人がつながる手段が広がった、情報化が進んだ現在とアナログの感覚が重なった時代だからこそできる考え方や今の新しい働き方だと思う。

 

私は、どちらかというと一人でいることが、人よりも好きな人間だと思っているが、リアルに人の声がない世界、やっぱり人は1人では、生きていけないなと思う。

 

ただ、在宅勤務では、どうしても、外部とのつながりが薄くなり、健康にも悪い。普通それは、誰もが避けたい寂しいことだ。

 

コロナ禍で、やむを得ない事態だったこともあるが、私は今の生活を通して、便利になった世の中を実感する一方で、人としての本来の感覚を思い出した。

と同時に、改めて組織に属しているありがたみも感じることができていることは、貴重な経験だと前向きに考えている。

 


荷物の量は不安の量

2021-08-30 20:09:28 | 日記

みなさん、こんにちは。(有)人事・労務の山﨑です。

お盆休みいかが過ごされていましたか?

お盆中、東京はあいにくの雨、コロナまだ蔓延しているということで・・・

私はほとんど家に籠って片付けをしていました。

 

近年、“断捨離” “ミニマリズム” “持たない暮らし” そんな言葉をよく聞くようになったなあと思います。

 

断捨離とは、不要な物を断ち切り、物への執着心をなくすことで、身軽で快適な生活や人生を手に入れる考え方のことです。

もともと、「断捨離」のそれぞれの文字には、ヨーガの行法(ぎょうほう)である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)に対応し、

 

断:入ってくる不要な物を断つ。

捨:家にずっとある不要な物を捨てる。

離:物への執着から離れる。 という意味があるそうです。

 

片付けをしてみると、自分が何に執着していたのか、に気付けて面白いです。

私は圧倒的に服と本が多かったです。

また、「何を断つか、何を残すか」という取捨選択の意識は、情報過多の世の中で必要な力になってくるような気がしますね。

 

「何を選ぶか、持っていくか」という点で言うと、家の中だけではなく、登山やキャンプ、アウトドアが好きな人はイメージしやすいかもしれません。

寒いかもしれないから、何か危険があるかもしれないから、退屈になったら・・・?

と何枚もの上着、大量の食糧、はたまた暇つぶしのトランプなどまで持って行ってしまうと、あっという間に荷物はパンパンで、行動するのが億劫になるくらい重くなってしまいます。

そんな時に、「荷物の量は不安の量」だなあ。と。

家にも、鞄にも多少の“余白”があった方が、新しい出会いを入れることが出来ます。

様々な本の中で、ジョジュア・ベッカーさんの「より少ない生き方」が私はお勧めです。

本当の豊かさについて考え直すきっかけになったので、もしご興味のある方は是非読んでみてください。

 


防空壕から考えた危険な「ムード」

2021-08-20 09:51:22 | 日記

有限会社人事・労務 社会保険労務士の畑中です。

最近は遠くに遊びに行くこともあまりできず、もっぱらお休みは近所のお散歩です。おかげで近所に住んでいるネコ達とその性格までわかるようになりました。

台東区は散歩には意外にいい場所です。隅田川沿いの静かな散歩道も多いですし、神社など落ち着くスポットも多いです。ぼーっとしながらゆっくり歩く時間は、体と心を整えてくれていると感じます。

隅田川沿いを歩いていると、東京大空襲に関する史跡も多いです。うちの近所の浅草一帯は焼け野原になったそうです。

先日、ちょっと足を伸ばして千住神社まで行ってきました。ここには、第2次大戦中につかわれていた防空壕がそのままの形で残っています。高さ1.5メートル、奥行き3メートル、おそらく10名も入ればいっぱいです。空襲の間、ここでかくれているというのは、どんなに心細いか、想像もできません。

どうして、あんな無謀な戦争をしたんだろうと思います。

最近読んで面白かった本のひとつに「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子著 新潮文庫)があります。

中学生に近代日本史の授業をする形で書かれています。明治から第二次世界大戦までのことが語られているのですが、どのようにして日本が戦争に近づいていったのかというのが「じわじわ」とわかります。いろんなターニングポイントがもちろんあるのですが、まさに「じわじわ」なんです。例えば日露戦争はまさに薄氷の勝利だったのに国民には大勝利だというムードが覆い、自信が過信になって、そのまま太平洋戦争に一歩一歩進んでいきます。何度も軌道修正できる場面があったのですが、国民のムードが戦争を「選んで」いるのです。気が付けばムードだけでなく治安維持法などで思ったことを言えなくなり、大本営の嘘の情報しか入らなくなってしまいました。

 

日本人は世界的に見てもムードに流されやすい国民だといわれています。私もそう思います。「空気を読む」という言葉がある通り、周囲の多数の意見やなんとなくのその場の雰囲気に流されることがよくあると思います。まあ、和を大切にするといういい面でもあるのですが。しかし、大きな流れができてしまってからではより意見をいうのは難しくなります。

戦後の昭和平成の日本では、テレビなどの限られた情報源の中で、日本全体でムードが作られていたと思います。もちろん問題もありますが、おおむね明るく前向きな、よいムードだったのではないでしょうか。しかし、今はネットなどを通じて多くの情報を誰でも得ることができます。それゆえに気が付けば同質化した個性が集まり、閉鎖的な世界での狭い世界観の中でムードを作ってしまうということが増えてきていると思います。同質的な仲間の中で違う意見が言いにくい、あえて言わないということが多くなってきていないでしょうか。それ以上に違う意見や視点をもつ人すらその中にいない、ということがあれば、組織としては劣化していくしかないと思います。

これだけ多様な時代に、全員が賛成意見の会議や話し合いというのはちょっと薄気味悪く感じないといけないのかもしれません。なんとなく気持ちのいいムードにどうやって水を差すことができるか、これから重要なことなのではと思います。

 

とはいっても人間(特に歳をとればとるほど)やはり「いつもの」を選びがちです。私も散歩をしていても特に意識しなければだいたい同じ道を歩きます。いつもと違う道をいけばこれまでにない発見(新しい猫と会うとか)もあるのに。

安定やムードには時には抗うべきだなあと感じました。