歯医者の腹の虫

　いい加減な歯の磨き方で良いと思っていた少年時代の負債が積もり積もって歯周病である。「こうなっちゃうと、長くかかるんですよ」と歯医者に言われている。レントゲンの画像をiPadを使って見せられながら、この歯もこっちの歯も歯根の周辺が、もうこの世の物では無い、という診断を下された。治療用の椅子に座りながら遠い目をするしか無い。またもや歯医者通いの週末を延々と続ける日々がやって来たのである。

　先日、もうこの世の物では無くなってしまった歯の根の部分の組織を調べるべく歯に細い針のような器具でグリグリと穴を開けられている最中に、歯医者の先生の腹の虫が鳴いているのを聞きつけた。口の中に手を突っ込まれながら為すすべもなく人間である気配を消しているまさにその時に聞こえて来た先生のおなかの音は、なぜだか私をほっとさせた。人間が人間のために働いている、そんな感じがしたのかもしれない。

　そう言えば、ついこのあいだ来客中にグルグルお腹が鳴って困ったことがあった。かなり良い話をして盛り上がって行きたかったのだが、あんまりお腹がグルグル鳴るので話す方も聞く方も、適当な社交辞令で終わりにしてしまった。深く切り込んで忘れられない印象深い会見にしたかったが、熱を込めて話をしようと目論んでいる本人の体から気が抜けた音が響き渡ってしまってはしまるものもしまらない。これは本当にお腹が空いて空いて仕方がなかったことが原因なのだが、そうではなく緊張のあまりお腹が鳴ってしまった記憶もある。本人は緊張していたつもりはまるで無かったのだが、身体は嘘をつかない。相当に緊張していたのだろう。妻の実家に「そろそろ結婚したい」という話しをするために出かけた日の話だ。今はもう亡くなってしまっている義理の父とは、そんな話し以前にも何回か会っていた。にも関わらず、その時はなぜかお腹が鳴って鳴り止まない。グルグルお腹の音を立てながら言うことは言って、双方とも大笑いした。

　「腹の虫がおさまらない」などと言うのは怒りを抑えることができないことを言うわけだが、私の場合大体において腹の虫は怒りよりも可笑しさをもたらして来た。そして腹の虫を鎮めるために楽しく会話をしながらたっぷり食べ、食べ始める前には思いもつかなかったようなアイデアに取り憑かれて食事の後の時間を楽しく過ごす。一人で急いで食事をしなければならない場合など誰とも会話せずにさっさと次の仕事に取り掛からなければならない時は、たくさん食べても「腹の虫がおさまらない」。禅寺で修行のような生活をさせられたら、最も早く音を上げるタイプだろうと思う。俗世でワイワイやっているのが性に合っている。

　この歯医者の先生はどっちのタイプなんだろう。一人で静かに食事をする方なのか、助手の女性たちに囲まれて楽しくおしゃべりしながら食事をするタイプなのか。そんなことを考えていたら「はい、今日はもう終わりですよ」と声をかけられた。治療椅子に座ったままボーッとしていたようだ。（三）


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