ミニマリズムの動画を観たり、断捨離の番組を観たり、持ち物を少なくしようという気持ちだけはあるのだが、実はうちでは、こんなものがたくさんある。
時計と、カレンダーだ。
電波時計 リビング
時計は、リビング、パソコンルーム、夫の居室、私の居室、洗面所、浴室とキッチン(給湯器のもの)、トイレにある。
居室は、電波時計の目覚ましの置時計と、掛け時計の両方がある。
カレンダーは、リビング、パソコンルーム(2つ:パソコン横とデスク横)、私の居室、トイレ。
スケジュールを書き込んであるのは、リビングの味気のない書き込み用の大きなカレンダーだ。
ミニマリスト タケルさんは、壁に物を貼らないこと、時計やカレンダーはスマホを見れば済む、と推奨している。
しかし、時間とスケジュールは、どうしても、逃れられない。
年金暮らしになって、大事になるのは、通院、ゴミ、割引の日で これが私たちを束縛する。
平日に時間がたくさん持てるようになったから、企業に電話する時間はいくらでもあるので、それに苦慮することはないが、クリニックや指定のごみの日は厳守だ。
買い物の割引は、ネットと、新聞のチラシで、しっかり確認して、手分けして買い出しに行く。
なにかを買ってしまってあとから、あっ!この日なら20%引きだった、と気づくととても損をした気がしてしまう。
急がないことが多いからだ。
ストック品は比較的多く持つほうなので、慌てて、今日買ってこなきゃ、という品は、もやしくらいだ。
もやしは、1日で色が悪くなる。
時刻は、健康の記録の中に、どのくらい歩いたか、自転車に乗ったか、などを書き留めるため、外出の出発時刻と、帰宅時刻を知っておきたいので、時計が気になるのだ。
タイマーもたくさんある。
冷蔵庫に2個、貼り付けてある。
ダイニングのテーブルに一人一つ持っている。これは目薬をさした時、1分間計るためだ。
あと、浴室には、壁にタイマーを貼ってある。防水用のものだ。
というのも、浴槽に入っていると、眠ってしまうことがよくあって、溺れるといけないので、7分間タイマーをセットして、湯舟に漬かるようにしている。
というわけで、どこにも時計とカレンダーがあり、これらに支配されたうちなのだ。
2019年11月19日 葉が3枚
バルコニーに置いて、水だけしか与えてなかったのに、枯れることなく、何年も生きてくれた。
初めは、100円ショップのミニ観葉植物だったようだ。
この写真のころ、部屋に入れて、育てることにした。
その1年後・・・
2020年12月22日 葉が7枚になった。
植物を育てるのは苦手な私だが、生命力の強い我が家の観葉植物が1年でずいぶん成長した。
2020年春に、大きな鉢に植え替えて、腐葉土や観葉植物の肥料を与えた。
3~4か月に一度、葉が開く。
年に4枚くらい出てくる。
なんという植物か名前がわからなかったが、最近ネットで見てみると、よく似た観葉植物が出てきた。
「テーブルヤシ」というらしい。
16日のブログに書いたように、12月13日から手紙の捨て活をしてきたが、なるべく、スキャンして原本は手放す方向で処理を進めた。
↓ ↓ ↓
今日、一応の区切りがついた。
甥姪の小さいころの手紙は原本を残したが、そのほかにも、原本を残したい手紙は最終的にはトータルで、タオルが入っていたような箱一つに減らした。
スキャンを毎日毎日した。
手紙は一通ずつ読み返した。
1990年ころからのものだった。
来年大学院を修了する甥がまだ生まれる前のころからの手紙だ。
幼かった姪のかわいらしい様子が書かれた姉の手紙は、姪にLINEで送った。
「なんか、こういうの読むと、愛されてるなーって嬉しい。
ちっちゃいころのこと覚えてないから」
と返信があった。
メールのないころ、(世間的にはもうあった時期でも、うちにはパソコンもなかった) 手紙とFAXは、貴重な情報交換の手段だった。
郵便受けに手紙が入っているのを見つけたときの、ワクワク感は、メールやLINEの着信のようなクールで無機質なメッセージとは、まったく違う心温まる家族のまさに「お便り」だった。
ずっと捨てられなかったことがそれを物語っている。
でも、捨て活をして、デジタル化して手紙は自分の近くに保存された。
終活の一環だ。
紙媒体の写真がたくさんアルバムにはまだある。
これこそ、まだ捨てられないでいる。
まだ捨てる気にもなっていない。
老後の楽しみともいうべきか。
アルバムを出してきて、ときおり話題に上った写真を夫と見て話が弾む。
夫との思い出の旅のスナップがほとんどだ。
だが、安曇野にご主人の定年後引っ越していった友人は、
「写真は、アルバムの本人以外は誰も欲しがらないし、1冊から1枚くらい選んで、残し、パソコンで自分が見て楽しむだけにしたし、ネガは全部捨てたわ」
と、語っていた。
写真は子供も孫も欲しがらない、とほかの人からもよく聞く。
たしかに、両親の家を片付けたときも、記念にある程度はもらってきたが、例えば父自身が一人で海外旅行に行ったときにアルバムなどは、開いても見ずに遺品処分業者の車に持って行ってもらった。
多くて、私のマンションに持ち帰ることもできない。
写真は自分が楽しむものだ。
とりあえず、手紙の捨て活は終了した。
ブログタイトルを年代と共に、何回か変更してきた。
これまでの「『人生は短い』と知る歳になってしまった」は、その時の衝動的な気分で変更してしまったので、
またではあるが、ブログタイトルを変更したいと思う。
新しいタイトルは
「暮らしの差し色」
に致しました。
今後ともよろしくお願い致します。
2008年の5月のこと。
52歳のときだ。
県の施設でバドミントンのスポーツ教室があった。
参加には、傷害保険であるレクリエーション保険に全期間対象の加入が義務付けられており、保険料は400円だった。
高校時代にバドミントン部に入っていたのと、パートのない日に少し運動をしてみたくなって、応募した。
ラケットとバドミントンシューズを買い、お店にガットを張ってもらった。
ラケットも、まあまあ良いクラスのものを選んで、うれしかった。
GWの終わるころ、初日があり、クラス分けをした。
経験のない人は、初心者へ、少し経験がある人は初級へ、と自分の意志で選ぶことになった。
私は長いこと運動もしていないから、初心者へ入った。
少しして、初級へと勧められた。
初級は高校の部活動クラスの練習だった。
「ついていけないので、初心者に行きます」
と言ったが、
「できているから初級でいいですよ」
と指導者に言われた。
10時~12時の全8回だった。火曜、金曜の午前のコースで、当時パートをしていたのだから、どのようにして参加を続けるように考えていたのだろうか。
パートを辞めたかったのかもしれない。
しばらくフットワークを入れたラリーの練習で、後ろに下がった時、右足が岩にでも乗り上げた感じの違和感がした。
「痛い!!」
コートから外れて壁際に寄って座り込んだ。
11:30頃だ。
足首が痛く、ムニュムニュ揉んだら、少し楽になった。
12時がじきに来て、解散になった。
整形外科に行きたいと思ったが駅前のクリニックは昼休み中であるからと、途中湿布薬をドラッグストアで買い、ゆっくり足を引きずりながら自宅まで帰った。
これは絶対筋肉痛のレベルではない。
整形外科の診療時刻に合わせて、タクシーで行った。
検査して、
「アキレス腱断裂です」
と診断が出た。
「病院に行って手術となるけど、◎◎市民病院は、医師が新しく来た先生ばかりなので、民間の病院を紹介します」
と言われた。
翌日が土曜日で朝、電車と、病院通院バスを乗り継いで行った。
診察で
「どうやってきましたか?」
と聞かれ、タクシー、電車、病院通院バスで来たことを話すと、
「今からもう歩かないでください。これ以上歩くとじん帯が伸びてしまうので固定します。」
検査で車いすになると、もう歩けなくなった。
松葉杖のレンタルを受け、使い方を習った。
入院は月曜、手術は火曜、となり、シーネで足を固定して、タクシーで帰宅した。
長期で私が家にいなくなるので、日曜は、夫に炊飯器や洗濯機の使い方、郵便受けのカギのナンバーを説明して、入院準備の荷物をまとめた。
月曜日に夫とタクシーで病院に行き、病棟で説明を受けた。
手術は全身麻酔、入院は10日間、退院後は、一旦自宅に帰り、ギプスの状態で自宅で過ごし、3-4週間後にリハビリ入院して、毎日リハビリを受ける、
ということだった。
「手術は肺塞栓が起きる可能性もあるので、手術室前にはご家族に居てもらってください」
と説明があり、手術日は夫と、老いた母にも病院に来てほしかった。
手術中に突発的なことがあった場合、家族が決断をしなければならないことも起こりうると言われ、83歳の母にもその決断のときに居てほしかったのだ。
手術は無事終わり、夫にも母にも心配と迷惑をかけて申し訳なかった。
5月23日に退院し、6月10日のリハビリ入院まで、途中1回の通院を除いて、自宅にいた。
集合ポストまでも部屋を出ずに、じっとうちにいた。
パソコンも、ブログを書いたりメールする気力もなく、本ブログの更新は頻繫にする気にもならなかった。
ネットでは、アキレス腱断裂を経験した人のブログをひたすら読んでいた。
夫は、
「だから、バドミントン行かないでくれ、と言ったじゃないか」
と、蛇のようにしつこく言い続けた。
リハビリ入院して、一日に1時間くらいのリハビリ以外はベッドにいて、時折お見舞いの方が来てくれて、気が晴れるときもあったが、保険金が降りるだろうかと、お金の心配をしていた。
6月10日にそれまでのギプスをカットして、前と後ろに分解できるギプスになり、普段は巻いて固定し、リハビリの時ははずす。
6月21日に退院して、あとは、リハビリの通院で、足を引きずらずに歩けるようになったのは、その年の12月だった。
保険金について、今回書こうと思ったので、前置きが長くなった。
レクリエーション保険と 個人的には、外資系の医療保険にも加入していた。
執刀してくださった整形外科にも月一回の通院があった。
保険の請求に診断書も記入していただき、医療保険の会社ととレクリエーション保険の損保会社に提出した。
無事、請求後すぐ入金があった。
これが、2008年のことだ。
その後、数年が経ち、けがをした右足は左に比べると、アキレス腱が太いこと、ふくらはぎが細くなってしまってなかなか戻らなかったことはあったが、傷口は縦に3cmくらいしかない。
10cmくらいの傷が残るのではないかと覚悟していたが、3cmほどの傷もいまは、ほとんどわからない。
2012年、テレビを観ていてだと思うが、損害保険の通院保険金は、実際に病院に通院した日だけでなく、ギプスをして自宅にいた期間についても、日額×日数で、受けることができることを知った。
2008年の書類すべて保存していたので、保険会社に電話して尋ねてみた。
調べてくれて、報告があり、結論から言うと、
当時加入したレクリエーション保険では、
「入院と入院のあいだの家庭にいる期間がギプスをして、自分で外せない期間は、通院保険金が出ます」
という回答だった。
「当時の担当者はもう退職してしまったので、本人からお詫びすることもできないのですが、振り込みます。」
ということで、後日4万円が振り込まれた。
2008年当時、すでに入院保険金、手術保険金、通院保険金が出ていた。
医療保険からは、当時手術給付金と入院給付金が出た。
保険のことは、自分から申し出ないとなにも出ないので、毎月払っている限り、しっかり請求しないといけないと実感した。
直近でも、夫が、白内障手術の後遺症の「後発白内障」の手術を日帰りでしたときも、手術と名が付くから問い合わせると、手術給付金が出た。
これは、すでに、ブログに書いてある。
たしかに、年金でも請求しなければ黙っていたら振り込まれては来ないのだから、損をしない努力は必要だ。
もうひとつ書いておくと、年金を受給しているかたは、源泉税を取られていたら、ぜひ確定申告をして、還付を受けてほしいし、証券会社でも、特定口座で、源泉税を引かれていたら、年収が少なければ、還付申告をすることをお勧めする。(3級FP技能士です)