捨て活をして、いつもつまづくところが、手紙だ。
菓子箱に雑然と入れたものが、押入れの段ボール箱の中から出てくる。
開けて読み始めると、やっぱり捨てられない。
何度押入れの片付けをやっても、手紙の菓子箱が元の段ボール箱に留まるので、あらためて長い時間をかけられるときに、じっくりと選別して捨て活しようと、そう思って、手紙の菓子箱は、天袋にあげて取っておいた。
最近、ミニマリズムにはまってYouTubeを観ていることは再三書いてきたが、ミニマリズムの本も興味を持って古本をamazonで買ったり、電子書籍で見たりしていた。
ミニマリストの佐々木典士さんの書かれた「ぼくたちにもうモノは必要ない」という本を無料お試し版でダウンロードしておいたものを、テレビに映して、ベッドで読んでいた。
元はマキシマリストだったのを、物を処分してミニマリストになった方で、その思想や経験を書かれている。
その中に、こんな記載があった。
・フイルム時代の写真はすべてスキャンして処分した
・想い出の手紙をすべてスキャンして手放した(幼稚園の頃から捨てていなかった)
ただ捨てることはできないから、捨てるものはすべて写真に撮った。
とある。
3000枚の写真がハードディスクに溜まったそうだ。
私はこの記述を読んで、「なるほど!」と膝を打った。
スキャンしよう!
私の手紙の菓子箱は4箱になっていた。
12月13日から手紙を仕分けして、判断の付けやすいところから、手放す、残すを分けていった。
つまりは、読みながらだ。
亡くなった方からの手紙は捨てられない。残した。今は原本をそのまま残す。
高齢の親戚からのものも一応残す。
友人の懐かしい手紙はスキャンして原本は手放す。
姉の手紙、甥、姪の小さいころの手紙、JICAで南米に行っていた弟の若いころの手紙は、1枚1枚読んでいると、これはなかなか手放せないなあ、と保留になっていたが、スキャンして原本は手放すもの、原本を残すもの、と判断がだんだんつくようになった。
きのうから、スキャンを始め、1日の大半の時間を費やしている。
まだしばらく掛かりそうだ。
無職だから、時間はある。
あと数日かかっても、やるのだ。
ここのところ、ブログの更新ができなかったのは、そういう理由だった。
9月に防衛省の防音工事が始まって、先日最終点検があり、終了した。
新築のマンションに入居して19年近く経って、これまでのものは、サッシの溝の汚れで、バルコニーに出るサッシの動きが悪くなっていたり、玄関扉の光る金属部分に塩害で白いサビが点々とついていたり、玄関の2つの錠が調子悪くなっていたりしていた。
今回の防音工事ですっかり新しくなり、サッシもすべて二重窓になったり、窓には換気口が取り付けられ、玄関ドア、レンジフード、浴室暖房乾燥機が交換され、エアコン、換気空清機が新しくついた。
そこは詳しく以前のブログに書いたとおりだ。
今までの掃除の仕方に反省をこめて、毎月1日には、丁寧にそれらの掃除をする日とした。実践している。
サッシの溝を、サッシ用のブラシ(100均で購入した)で、埃を集めて掃き出す。端切れの布の濡れ雑巾で拭く。
網戸と窓ガラスを中性洗剤の濡れ雑巾で拭く。そのあと水の濡れ雑巾で拭く。
窓ガラスを新聞紙で水分を拭き取る。新聞紙のインクの油分が水滴をはじいて良いのだと聞くから。
玄関ドアは、光る金属部分に塩害が出ないように、特に雑巾でよく拭き取り、磨く。
実物とは違うが、玄関はこのようなタイプのドアで、縦に装飾の光る部分があって、以前の玄関ドアは点々と白いサビが目立っていたのだ。
せっかく新しくなったので、これからはサビをつけたくない。
月に一度拭き取ってやれば、なんとか防げるのではないかと思った。
もともと塩害防止のドアが選ばれているので、サビは前よりは避けられるだろうと思う。
玄関と玄関前のポーチの掃き掃除で仕上げ。
実家にいたときから、自室のサッシの掃除はほとんどしなかった。
母に、「たまには窓の掃除をしなさいよ」と言われたことがある。
家事は実家暮らしのときは、ほとんどしなかった。
YouTubeで一人暮らしの女性が、うちじゅうを丁寧に隅々まで掃除している動画を観るが、「ほほお、そんなことまでするものなんかぁ」と感心してしまう。
そして、勉強になる。
それを見習って、幸運にも新しくなった部屋をきれいに長持ちさせたいと思っている。
高校3年のとき、受験する大学に国立大学も視野に入れて、国、数、英、社、理と選択科目を国立受験に合わせて取った。
文科系のコースに2年、3年と在籍していたので、生物系に進学したいと思ったとき、理科系のクラスに行かないと当時の数Ⅲという科目は受講できなかった。
難しい数学は2年から理科系を受講してこなければできないので、受験できる大学には制約があった。
浪人することは考えていなかった。どうしても、現役で大学進学したかった。
国立は1期校は中国地方の農学部に、2期校は北関東の大学の農学部に願書を出した。
私立大は、N女子大の理科と、J女子大の英文に願書を提出した。
私の住んでいた家は神奈川県横浜市にあった。
2月の16日に、都内のN女子大、18日に都内のJ女子大の入試があり、20日だったと思う、同じ日に合格発表があった。
私立大の入試が終わると、私は高熱を出し、合格発表に行けなかった。
母が仕事を休んで、私の代わりに、2か所発表を見に行ってくれた。
まだかまだかと家で待っているのに、母は、1番目にN女子大の発表を見たのに、電話をくれず、2か所目を見てから、電話を掛けてくれた。
結果は、どちらも合格だった。
合格したら、緊張の糸が切れた。
これから、国立大学の入試のために、まだ受験勉強を続けるテンションを保てなくなった。
N女子大で合格した学科は、実学の農学ではなく、理学系の生物、生化学を学べるところだった。
受験科目と合格可能性から、国立大は理学部は受験できないので、農学部を志願した。
受験勉強をしていた間は、地方の国立大学に行って、寮生活をして、親元を離れる生活に夢を持って、入試に邁進していたのだった。
緊張が緩んだとき、自宅から大学に通うほうがいいような気がしてきた。
地方に行くことに、心細さを抱くようになった。
甘ちゃんだからだ。
遠方の大学に行ったら、度々実家に帰るために、交通費も高額になり、生活費も仕送りしてもらわなければならない。
自宅から通える私立大学と私のために使う金額は変わらなくなってしまうのではないかとそんなことも思った。
私立大学を決めるとき、学費の少ないところを条件に捜した。
滑り止めにするとしても、行くことになるかもしれない私立大学であるから、それを重視した。
受験勉強の時、国立大学の合格だけを目指して頑張ってきた。
心細さもなく、願書を書くのも、受験の旅館を予約するのも自分でやり、入学した場合の学生寮の入寮の申し込みもした。
結局、N女子大に行きたいと両親に話した。
許してくれた。
4月、都内のN女子大に入学した。
数日後、中国地方の国立大学の学生寮から、自宅に電話がかかってきた。
寮「大学入学はしましたか?」
私「はい」
寮「入寮しますか?」
私「? 東京の大学に入学したのですが」
寮「そうでしたか」
私は、その大学に入学しなければ、同時に入寮もないことになるのかと思っていた。
受験の旅館は連絡してキャンセルしたが、学生寮も直接キャンセルしなければいけなかったらしい。
謝って、キャンセルして頂いた。
もう一つの北関東の大学の学生寮にも連絡を入れた。
N女子大に進学したことが、良かったのか、親元離れて、遠くの大学に行ったほうが、良かったのか、今もわからないが、それが18歳の選択だった。
大学3年の夏だったか、卒論はどの先生につくか、選ぶ時期が来た。
学内、学外と卒論生を受け入れる研究室の一覧があって、師事したいと思う先生との面談に研究室を回る。
2か所の研究室で話を聞いて、若い女性の講師の先生は、植物細胞を培養して、細胞壁にある酵素の生化学研究をされていた。
私は細胞培養に関心があったので、生化学は得意の分野ではなかったが、先生の穏やかそうな笑顔や落ち着いた話し方にも魅かれて、この先生のもとで卒論を研究しようと決めた。
その先生の授業は取ったことがなかった。
先生は出産を控えていて、卒論生は1名しか採らなかった。
3年の秋、卒論の先生は、アルバイトに姪御さんの家庭教師をしないか、と仕事を紹介してくれた。
そのとき、大学院生が中学受験の小学6年生の家庭教師をしていて、家庭教師を辞めるので、後任を捜しているということだった。
私の家は大学からは1時間50分もかかる郊外にあったが、姪御さんは、うちの駅の隣の駅の団地に住んでいた。
その近さのことがあって、私のところに話が来たのだろうと思う。
その前に夏休みにもその先生が、通信教育のスクーリングの助手をしないかという話をくれて、全国から来るスクーリングの学生の生化学実験のアシスタントのアルバイトをしたことがあった。
さて、小学6年生のR子ちゃんは、四谷大塚の進学教室に通っていて、毎週日曜の全国模試でも名前が載る優秀な女子小学生だった。
私の任務は、四谷大塚の模試を受けたあと、間違えたところの解説をしてほしいというものであった。
私は中学受験はしたことがなかったし、選ばれた子が集まる私立に進学することは、あまり賛成の立場ではなかった。
世の中には、いろいろと暮らし向きや境遇がさまざまの子がいて、公立学校には、世の中の縮図のように、人が集まっていることを肌で感じて、中学時代を過ごすことに大きな意義があると思っていたからだ。
しかし、R子ちゃんのお母さんと、先輩と私で面談し、お寿司をごちそうになって、週2日家庭教師として来ることに決まった。
中学受験をしなかったと書いたが、算数では、つるかめ算、植木算、旅人算など、応用問題は全く私は覚えていないし、第一、小学6年のとき、そういうのは解けなかった。
中学からは、x,yを使って方程式にすれば簡単に解けるものでも、小学校では、x,yは使わないので、R子ちゃんには、正直に話しておいた。
数学を交えて、解説するより方法はなかった。
四谷大塚の試験の解説のページを、「見させてもらっていい?」と聞いてから、ふむふむ、こう解くのか、と納得してから、R子ちゃんでもできなかった問題を解説して、類似問題を作って解答してもらった。
算数では、余談も入れて、数学も小出しに話した。
私「ある数が2で割れるかどうかは、偶数かどうかでわかるよね」
R子「はい」
私「では、ある数が3で割り切れるかどうか、瞬間で分かったらいいと思わない?」
R子「はい」
私「九九より大きな数だとすぐにわからないでしょ。割り算しないでは。」
R子「はい」
私「156が3で割り切れるか、割ってみて」
R子「割り切れます」
私「156の 1と5と6を足してみて」
R子「12です」
私「12は3で割り切れるよね。どんなに大きな数字でも数字を足し合わせて、3の倍数なら、
割り切れるのよ。
その12もさらに 1+2にして、3になる。それが3の倍数か見れば、割り切れる。
例えば、16,942は、足すと?」
R子「22」
私「さらに足すと?」
R子「4」
私「実際、割り算してみて?」
R子「割り切れません」
私「そうすれば、3で割り切れる数字かどうか、すぐわかるのよ。
自分で例題の数字を作って、やってみて。
今は、あまり役に立たない知識かもしれないけど、中学で数学をやれば
役に立つと思うよ」
いつも、四谷大塚の正答のページを読ませてもらってから、説明していた、力のない家庭教師のどこが気に入ったのか、R子ちゃんの希望で、週3回の家庭教師になった。
翌年の1月、R子ちゃんは、女子学院と、青山学院の中学校に合格した。
女子学院に進学を決めた。
R子ちゃんの入試問題を解説して、最終日、ケーキのホールをお礼にと頂いて、R子ちゃんの家を後にした。
今日も、夫の1日の食事記録表を掲載する。
夫に、聞いてみた。
私「もし、私の人生と、△△ちゃん(夫)の人生と、どちらかしか選べないとしたら、どっちの人生選ぶ?」
夫は、即座に
夫「◎◎ちゃん(私)の人生!」
と答えた。
私「どうして?」
夫「食べられるから」
というのだ。
私は夫の人生を選びたい。
夫は、横浜の中学を卒業すると、電機メーカーの会社員になり、夜学の工業高校を卒業し、充実した会社員生活を送った。
その後 2002年の不況で大企業がリストラの大断行をしたとき、割増の退職金がもらえるし、技術の進歩についていくのが大変になり、この際退職したい、と 手を挙げて退職した。
転職支援のアフターサービスを受け、雇用保険を受けた後、もとより考えていた警備員の職に就き、60歳を過ぎても一昼夜の勤務形態で、仕事を続けた。
体調がすぐれなくなり、退職することにし、退職後は厚生年金の「長期加入者の特例」で、44年間、厚生年金に加入した者への特例により、退職した翌日から、年金を満額受給できた。
2012年から、腎臓の数値が良くないことを受け、循環器の先生が、腎臓内科を受診してというので、受診して、検査入院したところ、慢性腎臓病になっていることがわかった。
それからの健康状態は、芳しくなく、透析にならないために、このブログに幾度となく書いてきたように腎臓病食に苦心してきた。
食生活のストイックな取り組みで、日々をすごしている。
コロナの基礎疾患にも「慢性腎臓病」が挙げられており、夫がもし、コロナに感染したら、治療のために投薬を受け、そのまま透析に移行してしまうだろう。
夫は生まれてすぐに実母が胸の病で離されて、別に暮らし、亡くなった。
そのため夫は実母の顔を知らず、小学校に上がる前までは祖父に育てられ、それからは継母と暮らしてきた。
継母も、夫が20代の時に亡くなった。
私は、20代から神経科の疾患があり、仕事をしては、病気が悪化して退職を余儀なくされ、体調が落ち着くようになっては、職探しをして働く、そしてまた悪化して退職という仕事人生を歩んできた。
同じ職場の正社員とそこへ来た派遣社員という立場で知り合い、結婚することになった。年齢は7歳離れている。
お金がないので、地図帳の緑に塗られた公園をみつけては、ここへ行こう、とお弁当を持ってピクニックに行くのが、デートだった。
年金生活で穏やかな暮らしはしているが、夫は、慢性腎臓病の悪化に戦戦兢兢としている。
好き放題に食べることはできないし、旅行も行きづらい。
引退したら旅行に行こう、とそれだけを楽しみにしてきたのだった。
それもかなわず、毎日、1日の食事記録表とにらめっこをしながら、料理をして、3食を作り、コロナの感染に怯える日々だ。
私は、腎臓は幸い悪くはないが、夫とは別の食事を毎日作って、キッチンは さながらシェアハウスだ。
さざ波程度の波風で今は暮らしているが、もっと二人にとって楽しいことのある老後を送りたかった、と、二人とも思っている。
私は夫の人生は前向きでうらやましい過去の歴史を持っていると思う。
YouTubeでは、私とは年代の違う音楽を楽しんでいる。
きょうもまた、1日の食事記録表を掲載する。