名古屋徳川美術館に新たに復元された大坂冬の陣図屏風がこの夏展示を。そこで起こった物議が、誰が描かせ、誰が描いたか、という事。その道に明るい人達がああでも、こうでもと楽しんで。徳川時代に描かれた屏風が、悉く豊臣が徳川を打ち破っている描写で。常識的に不可解なこの屏風。当時の人間模様が見え隠れを。
【追伸】徳川がやられている様に描写の屏風を徳川時代に入って描くなど、許されるはずが。が、実際にある。で、学者達がこの不可解な事実に、おもいっきり楽しんで物議を。 描いたは狩野派とも、長谷川派とも、特定するまでには、至ってないと。
ある学者は、豊臣家寄りの人が描かせたのでは、なる説。大阪城の描き方が綺麗過ぎる。落城
するは誰しも承知。なれば、綺麗な城を残しておきたいという人がいたのか、と。
ある学者は、徳川秀忠公が描かせたのではないか、という説。家康公陣屋は小さく、秀忠公陣屋
は大きく描いている。屏風の右上に堂々と描かれた秀忠公の陣屋。御簾の奥にある
秀忠公部屋脇には、徳川総大将を示す金扇の馬印が。家康公の用意した大量の大
砲、鉄の盾も全く描かれたない。家康公が大坂城西の丸に建てた天守も雲で隠す様
に描かれている事も。これからの世は、秀忠が率いるを示すためにか、と。
ある学者は、真田幸村公の兄、真田信之公が描かせたのでは、と。屏風の中心に真田丸の攻防を
称えている描写から。敵味方となったとはいえ、弟の供養塔を長野市のお寺に。
ある学者は、千姫が描かせたのではないか、と。「爺ちゃん(家康公)、父ちゃん(秀忠公)、
おめえら、折角秀頼公と仲睦まじく暮らしていたのに、なんちゅう事をさらすね
ん。せめて記録として屏風を作らせい」と。千姫には流石に、爺も父も頭が、と。
拙僧は、この千姫説に1票かな。家族模様がえがかれておて、何とも人間味が。
上記の屏風写真は、大変申し訳ありませんが、NHKの歴史番組で使用された写真を使用。どうか、お許しを。皆さん。名古屋徳川美術館に見に行って下さい。見応えがあると思います。