1分で読める小さなお寺の法話集

子育て、人材育成に関する法話を実話と歴史から紐解いて書いております。

【2191話目】小学校入学式後、教室で1人の父親が30分以上も先生(担任)に大声で文句を。生徒、他保護者を待たせた状態で。我が子の名前を読み間違えたとかで。キラキラネーム全盛時代の話。

2021-06-16 15:02:54 | 法話

読者が「愚痴聞いてよ。町内に裕福家族が。息子同士が同学年(中1)、同野球部で、上級生がその裕福息子の練習怠慢を注意。後日、その父親が校長、顧問、野球部員保護者全員を呼び出し、皆の面前でその上級生に土下座をさせた。驚いたは、謝罪を受けた裕福息子が『形だけ謝られてもね』と。蛙の子は蛙ですね」と。

【追伸】読者が「息子の通うこの学校は、私立中高一貫で、一応、進学校。子供をブランド扱いする親だらけです。私達夫婦は保護者会に伺うと居場所がない。よって、居場所がない親同士が教室の隅の方に固まって。そう感じてしまう私達にも、問題はあるとはわかっておるんですが。住職が度々『親が作った家庭環境で、その親が育てる。親に似た子供が育つ確率は、高くて当然』と法話で。当に、その通りの家族満載の学校。住職が嘗ての法話で『5科目が出来るを人生の成功者と勘違いして育てた親と、勘違いして育った子供が一流大学を出たあと、社会に馴染めず、高学歴ニートに』と。実際によく耳にする話です。息子もよい社会勉強をこの学校で」と。




【2190話目】亭主関白、と、かかあ殿下、を比べてみたら、見た目も良ければ、夫婦円満となるも、圧倒的に、かかあ殿下、かな。拙僧夫婦もまた、かかあ殿下夫婦にて。一生着いていきます。今年で33年目。

2021-06-15 16:43:22 | 法話
檀家新婚夫婦が「住職夫妻を物に例えたら、何ですか」と。「漬物石(妻)と漬物(夫)の関係かな。漬物(夫)の美味しい、不味いは、糠床(ぬかどこ)次第。混ぜなくてもダメ、混ぜ過ぎてもダメ。重しの漬物石(妻)の役割は、味がよく浸透する様に。女房次第で、世間に出しても恥ずかしくない夫が出来上がる」と。

【追伸】糠床をかき混ぜる(妻は夫をしばきあげる)理由は、嫌な匂いや、カビ(夫が世間に迷惑かけない様)を防止するため。かき混ぜる(妻が夫をしばく)頻度は、漬物を取り出す時に、表面の糠と底の糠を入れ替えてやる程度でよし、と。乳酸菌は酸素を嫌うのでやり過ぎはあかん。夏場なら漬物を付けてない時は、朝夕の2回。冷蔵庫に入れている時は、日に1回。秋から春にかけても、日に1回程度でよし、と。ほらね、夫婦関係によく似てるでしょ、糠漬けは。







【2189話目】某地方銀行では拙僧の知るところ、40年前から新入社員に数日間、掃除を。掃除をさせたら、その人間の性質や、仕事が出来るかどうか、だいたい分かると。それを参考に配置を決める、と。

2021-06-15 08:36:26 | 法話

檀家の父と子(息子9歳)が、参拝後に寺内庭掃除を。その親子の会話が耳に。「ちょっと来てごらん。掃除は見える所だけすればいいじゃないぞ。垣根の裏を見てごらん」「あっ、凄い落葉」「あの落葉をほっといたら、腐葉土になって何倍も掃除が大変に。人生も同じ。この意味、わかるか」「少しだけ」と。よか親子。

【追伸】これは、数年前の話。秋も深まってきた頃、檀家の小学生が1人でお寺へ遊びに。その時、拙僧、銀杏拾いの最中。「それ何」「銀杏だよ。・・ああ、・・そうか。君は、食べる時の銀杏しか見てないんだな。銀杏、好きかい」「大好き」「手伝うか」「やる」「じゃ、ゴム手袋付けな。手が荒れるからな」と。それから3時間。銀杏数百個拾って、洗って、干して、銀杏拾った後の落ち葉の掃除を。「こんなに大変なんだ」とその子が。「食べれば、一瞬だけどな。何かを得ようと思えば、それなりの努力は必要だよ。10日後にまたおいで、君が仕事した銀杏あげるから」「今度、父さんを連れて来る」と。




【2188話目】拙僧、来年、還暦を。気力、体力も多少衰えを。父が60歳を超えた頃「聞く耳のない者に話をするは疲れる。これからは、誰でも彼でも、という訳にはいかんだろうな。」と。今、その気持ちが。

2021-06-12 09:21:45 | 法話

他宗の老住職さんが「金剛寺さんよ。聞く耳のない者に、自分が努力して改善しようとしない者に、話(説得)をするは、とても疲れる。わしも60代後半までは、気力も、体力もあり、積極的にこちら側から声を掛けていたが。昨今、衰えてきてな。申し訳ないが、自ら足を運んで来た者だけを、相手する事に決めた」と。

【追伸】この老住職の気持ち、拙僧にも大いに納得するところあり。わが寺は30年以上、四国巡礼に。父が60歳を半分超えた頃からだったかな、「あなたも巡礼のご縁を受けんかね」と誘う父の言葉が、プッツリと鳴りを潜めた。訳を聞くと「自主的に参拝しようという人は、初めから心掛けが違うから、手を取る事が殆どない。が、こちらが誘って来られた人は、物見遊山の心があるから、自主性が欠け『ああしなさい、こうしなさい、旅行じゃないんだよ』と、全て指示せにゃならんから、大変疲れる。若い頃はそんな事、何ともなかったが、この歳になるとな」と。拙僧も来年還暦を迎えるにあたり、この父の気持ちが、少しはわかる気がする。




【2187話目】人間関係は、夫婦、親子、友人、同僚、師弟も、全て「出会うは運命、出会ってから先は努力、最後の別れには感謝」かな。縁は異なもの味なもの。どこで、どの様に結ばれるか、人は知らず。

2021-06-11 10:10:59 | 法話

ツイッター法話を読んだ方が遠近問わず年に数人、お寺へ参拝に。その時、必ず法話の本と短文法話のコピーを「必要なかったら、捨ててもいいから、まあ、もって帰り」と。檀家が「ほんとにそこらへんに捨てられたら」と。「その捨てられ本を誰かが拾って読んでくれたら。縁はどう流れるか、人には計り知れんよ」と。

【追伸】拙僧の子供達が10代の頃「父さん、母さんの了解も取らず勝手に、式場、日程を決めて『結婚するぞ』って、何なん、犯罪やん」と。対し「明治時代の教育者、哲学者の森信三さんが『出会う人(物)には、出会う様になっとる。それも、一瞬早くもなし、一瞬遅くもなし』と。父さんらも、母さんは高校の後輩、後輩といっても父さんが卒業と同時に入学した人。もし、高校時代に縁があって、出会っていたら『何なのよ、この人、変な人』と、見向きもされてなかっただろう、と推測する。タイミングって、大事なんだよ。そのタイミングも縁だ。その縁に感謝しなきゃ。君らはそれで生まれてこれたんだから」と。