神エホバは、イザヤを通して、しかもイザヤが裸とはだしになって3年間も、人間の力・同盟に頼ることの空しさを伝えました。神エホバは、どんな時もご自身に依り頼むように勧めている通りです(格言3:4~6)。
次に神エホバは、ご自分の契約下のユダが、避難所として希望を託して来たエジプトやエチオピアがアッシリア人の前に無力であることを思い知らせる時に示す反応を、預言的に次のように描写しています。
「彼ら(エジプトやエチオピア)はおびえ、自分たち(神エホバの民)が望みをかけていたエチオピアと誇りにしていたエジプトを恥じる。その日、海沿いの地帯の住民(神の民のユダ)はこう言う。「私たちの希望のよりどころは、あのありさま(裸にされるありさま)だ!アッシリアの王から救ってもらおうと、助けを求めて逃げて来たのに。こうなっては、どうして逃れられるだろうか」(イザヤ20:5,6)。
当時強国であるエジプトやエチオピアと比べると、神エホバの民のユダはただの細長い海沿いの地帯のように見えます。「この海沿いの地帯の住民」の中には、印象的なエジプトのピラミッド、そびえたつ神殿、庭園の果樹園や池に囲まれた広々とした邸宅等々、エジプトの誇りに魅了された人々もいるようです。当時の堂々たるエジプトの建築物は、安定性と永続性の証拠のように見えた事でしょう。そのようなエジプトが荒廃するなどとは、人間の知恵では考えられなかったかも知れません。神の民のユダヤ人は、エチオピアの射手や兵車や騎手たちにも感銘を受けていたようです。
イザヤが裸とはだしで告げた警告と神エホバの預言的な言葉を受けて、エジプトとエチオピアの力に依り頼もうとする神の民はみな、どうするかを真剣に考えなければなりません。地上の限界のある人間にではなく、神エホバに依り頼むほうがどれほど勝っているでしょう!(詩編25:2;40:4.格言3:4~6)。イザヤの警告通り、事態の進展に伴い、神の民ユダは、アッシリアの王の手にかかってひどく苦しみます。そして後には、エルサレムの神殿と首都がバビロンに滅ぼされるのを経験します。しかし、大木の切り株のように、「民の十分の一」、もしくは「聖なる子孫」が残されます(イザヤ6:13)。その時、イザヤの告げた音信は、神エホバに依り頼み続けるその小さなグループの侵攻は大いに強められたことでしょう。それは、今日のエホバの民にとっては同じことです。
あなたも、どのような試練に直面しても神エホバに依り頼む人々のお一人であれば幸いです(格言3:4~6)。
連休や 水族館子ら 歓声 今日の一句
庭に残って咲いている鮮やかな「カタバミ」