神エホバは、イザヤを通して、ご自分の民のイスラエルに対して憤ることの十分な理由を明らかにされました(イザヤ47:6前半)。
神エホバは、ご自分の相続物のユダが汚されることを許されました。そうであれば、バビロンは神エホバの民のユダヤ人を奴隷にする時、神エホバのご意志を果たしているに過ぎないのではありませんか。いいえ、そうではありません。神エホバは、イザヤを通して次のように述べておられます。
「「あなた(バビロン)は彼ら(神エホバの民)に憐れみを示さなかった。老人にも重い荷を負わせた。「私(バビロン)は永遠に女王であり続ける」とあなたは言った。これらのことを心に留めず、終わりについて考えなかった」」(イザヤ47:6後半、7)。
神エホバが、バビロンに、「老人にも」、決して恵みを示さず、「重荷を負わせ」残虐の限りを尽くせと、命じたことはありません(哀歌4:16;5:12)。また、捕らわれの身のユダヤ人をあざけってサディスト的な快楽を得るよう、けしかけたこともありません(詩編137:3)。
バビロンは、神エホバの民のユダヤ人を我が物として扱えるのが、つかの間である、ということを理解していませんでした。神エホバが、やがてご自分の民を自由にされる、というイザヤの預言を無視しました。神エホバの民のユダヤ人を恒久的に支配する権利と、永久に数々の属国の女王であり続ける権利とを得ているかのようにバビロンは振る舞っていたのです。バビロンは、自らの圧制的な支配の「終わりについて考えなかった」のです。愛の神エホバは、他の人に憐れみを示さず、老人に、つまり弱い立場の人に重荷を負わせるような行為は許されません(ヨハネ第一4:8.マタイ23:1~4)。神エホバのご意志を守り行わない人たちは、弱い立場の人に重荷を載せ、自分ではその重荷を軽減する援助をしないことを教えられたイエスの教えも覚えておきたいものです。
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腰を曲げ ヘレボルス撮る 難しさ 今日の一句
道辺に咲いている「桜草」