私たちの会話の中で、「〇〇さんは、とても心の円満な方ですね」という言葉を用います。反対にあの人は「心が欠けている人なので近寄るのが苦手だね・・・」と、話すことがあります。私たちは後者の人ではなく、「心の円満な人」として、他の人から見られる人格特性を培いたいものです。
聖書の「箴言」の書には、次の言葉が紹介されています。「心の欠けている者は仲間の者をさげすんだ。しかし、識別力の豊かな人は沈黙を守る者である」(箴言11:12)。
聖書は「心の欠けた」人について何度か言及しています。「心の欠けた」とは、「旧約聖書事典」によれば「理知のない」ことを意味しています。また「旧約聖書ヘブライ語・英語辞典」では、そのような人には「理解が欠けて」います。「心の欠けた」という表現は、健全な判断力や識別力のない人を指して使われます。従って、「心の欠けた」という表現は、「理解」(箴言10:13)や「識別力」(箴言11:12;15:21)と対比されています。他の用例では、「心の欠けた」者が「経験のない」、「愚かな」知恵の欠けた者として示されています(箴言7:7;9:1~9,16;10:21)。これらの聖句は、「心」という語を用いることによって、内なる人全体の積極的な特質が欠けていることを示しています。
「心が欠けている」という表現に、健全な判断力または識別力がないという考えが含まれていることは、聖書の中でこの表現が用いられている個所の文脈をみれば明らかです。箴言6章32節で、姦淫を犯す人は「心が欠けている」と述べています。性の不道徳が生み出す苦い実を考えれば、姦淫を犯す者は「無分別な愚かな者」です(箴言6:23~35;7:7,21~27)。その人は、外面は立派な人に見えまるかも知れませんが、内なる人に関しては霊的進歩を遂げる点で重大な欠点があることを聖書は教えています。
「心が欠けている」のとは対照的に、箴言は「心を得る」者について教えています。箴言19章8節で次のように教えている通りです。「心を得る者は自分の魂(命)を愛している。識別力を守っている者は善を見いだすのである」。その人は内面の深いところで、自分は実際にどんな者かという点に真剣に注意を払う人です。その人は、神エホバとエホバ神の道に関する正確な知識を得るために自分の思いを「霊の実」を学ぶように働かせます(ガラテア5:22,23)。そして、そのような事柄に関して黙想し、適用することに努めます(詩編1:1~3)。また、自分の欲望、愛情、感情、および人生の目標を、神エホバに是認されるものであることが分かっている事柄と調和するよう注意深く形作ってゆきます。イエスの教えられた「思慮深い人」として歩みます(マタイ7:24,25)。そうすることによって、その人は自分自身に益をもたらし、「自分の魂を愛している」ことを示すのです。またそのようにして内なる人を築き上げることのよって、「識別力を守ります」。なぜなら、明確に考え、賢く行動する自分自身の能力に強い影響を及ぼすそれらの要素を健全な仕方で強めるからです。
聖書の教えを少し検証すると、イエスがみ言葉を聞いて学び、守り行う「思慮深い人」として歩み、「愚かな人」とならないように教えられた意味がよく分かるのではないでしょうか(マタイ7:24~27)。
百合の花 寛大な人 笑み豊か 今日の一句
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