皆様方の中にも、会社で何かのことで間違いを犯しても、進んで許してくださる上司に恵まれたかも知れません。私の上司はいつも、「何かのことで仕事の間違いが起きても、自分が全責任を取るので、はばかることなく仕事を行なうように」と、言い、全権限を与えてくださいました。進んで許しを与えてくださる方は、自由意志を尊重し、権限も与えてくださるので、とても働くことに歓びを感じました。神エホバは宇宙の主権者でありながら、私たちに自由意志の行使を与えてくださり、何かのことで誤りを犯しても進んで許してくださいます(詩編86:5)。今日は聖書からそのことについての序論をお伝え致します。
「わたしのとががわたしの頭を超えました」、と詩編作者ダビデは霊感を受けて書き記しています。「重い荷のように、それはわたしにとって重すぎるのです。わたしは感覚を失い、極度に打ちひしがれ・・・ました」(詩編38:4,8)。ダビデは、良心の呵責がどれほどの重荷となるかを知っていました。しかし同時に、重荷に満ちた心にとって、慰めとなるものを見いだしました。神エホバは罪を憎まれますが、真に悔い改めて、罪深い歩みを退ける罪人を憎むことはされない、という点を理解していたのです。ダビデは悔い改めた者に神エホバが快く憐れみを差し伸べてくださることに全き信仰を抱き、「エホバよ、あなたは進んで許してくださいます」と言いました(詩編86:5)。
私たちも、罪を犯し、良心の痛みという重荷に打ちひしがれることがあるかも知れません。そのような悔恨の情は健全なものです。過ちを正すために積極的な行動を取るように人を動かす力があるからです。しかし、罪の意識に押しつぶされてしまう危険もあります。自責の念を抱く余り、どんなに悔い改めても神エホバは許してくださらない、と思い込んでしまうのです。もし罪の意識に「呑み込まれてしまう」なら、悪魔サタンは、私たちがあきらめるように、また自分は神エホバの目に無価値であり、神エホバに仕える資格がないと感じるように仕向けるようにするかもしれません(コリント第二2:5~11)。
お父さんエホバ神はそのような見方をされるのでしょうか。されません。悔い改めた者への許しは、神エホバの偉大な愛の一面です。み言葉・聖書の中で神エホバは、人が心からの真の悔い改めを示すなら、その人を快く許す、と保証してくださっています(箴言28:13)。では、自分は神エホバの許しを得られないなどと考えないようにするため、神エホバがなぜ、どのように許されるかを聖書から調べてみましょう。そのことに関し「エホバが進んで許してくださる」のはなぜか」という点を次回にお伝え致します。引き続きお読みくだされば幸いです。
参考資料:ものみの塔聖書冊子協会発行「エホバに近づきなさい」誌。
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