城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

姜(尚中)さんの本を読む 23.2.2

2023-02-02 20:00:04 | 面白い本はないか
 
 今日はブログを開設してまる4年になる記念の日である。その前2年以上にわたって、かつて所属していたO山岳会のブログも書いていたので、あわせると6年以上書いていることになる。前は山の報告の記事ばかりであったが、自分のブログを書くようになってからは、山ばかりでなく今や自分の生活の一部ともなっている読書や野菜づくりや庭の花について、日記風に綴ってきた。野菜や花は、ほとんど同じことを繰り返していることになるが、それでも時には大成功したり、思わぬ失敗があったり、新たな発見があったりと決して飽きることはないのである。いよいよ5年目となる今年も何かしらの発見があったりしたら、皆さんとともにそれを楽しんでいきたいと考えている。

姜さん、著名な政治学者であり、エッセイストであり、時には小説家である。一月彼の本を5冊読んだ、五木寛之との対談本「漂流者の生き方」(対談本が極めて多いのも姜さんの特徴か?)、「母の教えー10年後の悩む力」、「維新の影ー近代150年、思索の旅」、そして実話なのかフィクションなのか見分けが付かない「母ーオモニ」、「心」。


 「母の教え」には著者が読み書きできなかった母から受けた生きていく上での教訓とも言うべき教えが自分の血肉ともなっていく様を書く。母、長男の死を経て、長野県追分に住まいを定めた。執筆のかたわら、小さな野菜畑を作り、失敗しつつもその収穫を楽しむ。さらに関心はバラやクレマチスに向かう。ここまで来るともっと他の本も読んでみたくなるのは当然である。少しだけ文中から引用する。「母の言葉には、一抹の寂しさとともに、ここまで歩んできた道のりへの、限りない矜持の年が宿っていた。自分は生きた、生き抜いたという自負が、母の表情に溢れていたのである。」「私たちは、今「終活」に向けて、その準備の季節を迎えつつある。今にして思えば、「山」に棲もうと思ったのも、孤独が際立つ都会ではなく、孤独を楽しみながら、生きることを分かち合い、そして、別々の最期を迎えるための、絶妙な距離感を求めていたからだ。」

 2018年は明治維新(1868年)から150年の節目に当たる年だった。政府によると「明治以降の日本の歩みを改めて整理し、未来に遺すことによって、次世代を担う若者に、これからの日本のあり方を考えてもらう契機とする」との趣旨だった(ただ、庶民の間でその節目を祝おうという雰囲気はあまりなかったように感じているのだが。)。果たして、私たちはこの150年を振り返り、輝かしい未来を手に入れることができるだろうかというのが姜さんの疑問だった。この疑問について考えるため、日本全国の様々な正負の遺産を訪れ、思索を深め、それを「維新の影」として発表した。軍艦島、足尾銅山、水俣病、変わったところでは共産党本部というのもある。訪れた場所が多く、残念ながら深い探求とはなっていない気がする。特に気に入らないのは「苦海浄土」の石牟礼道子さん(随分年をとってしまわれていた)とのツーショットだった。「川崎コリアタウン」を訪れたときの記事を紹介する。80年代半ば、居住する埼玉県で、「在日韓国・朝鮮人」に強要されていた指紋押捺拒否の第一号になってしまった私の中に揺らめいていたのは、地域への、社会への、そして国への共生のラブコールだった。「ともに生きたい}、だから地域に生きる仲間として遇して欲しい、その思いだった。また、こうも言っている。懶惰(らんだ)、不逞、猜疑、貧困、無知など否定的な表象を一身に背負った「一世」は、同時に「二世」(著者を含む)にとって圧倒的な存在感を持った、自らのルーツそのものであり、こうした否定と肯定の愛憎併存こそ、実際には、多くの「在日二世」たちの宙ぶらりんなアイデンティティを支えていたのである。

 次に読んだのが、「母」。姜さんの自伝的小説である。彼の父親は第二次大戦前に日本に渡り、軍需工場で働いていた(この当時、日本の男どもは兵隊にとられ、労働力が大いに不足していた。一方で朝鮮には仕事口がなかった。戦争が進むにつれ、半ば強制的に労働力を集めるようになっていった)。その父親の妻となるべく、母親もまた日本にやってきた。東京から名古屋そして熊本(父の弟が憲兵を当地でしていたー弟は大学卒、この経歴がどのような結果を招いたかは語られていないが、韓国で著名な弁護士として活躍したあと、事業に失敗し、不幸な結末となる)に移った。戦争中から戦後にかけて、生きていくのは日本人にとっても過酷なことであった。まして、何の資産や頼れる係累もない朝鮮からの移住者(朝鮮半島の混乱で帰りたくても帰れない、そして続いて起こった朝鮮戦争、軍事政権の樹立などによって心ならずも日本で生きていくしかなかった人々)たちにとっては厳しいものであった。著者のオモニは、商売上手で廃品回収で才覚を発揮し、永野商店として発展させていった。著者はそのオモニの3番目の男子(戦時中に生まれた最初の男子は乳児の時に栄養不足で亡くなっている)として生まれたが、長ずるにつれ、「ちょうせん」と呼ばれることやその習俗(オモニの行う祭祀など)を忌避していた。しかし、叔父との交流、父母の地の訪問などにより、通名の「永野鉄男」から「姜尚中」と名乗ることを決意するのだった。オモニは姜さんを「センセイ」と呼んだ。オモニは感情表現豊かで、困っている人にはすぐに手をさしのべるような人だった。「もうよかよ、たくさん生きたけんね。そっとしておきなっせ」とでも言いたげに永遠の眠りについた。

 この本を読んでいて思い浮かぶことがある。廃品回収業、昔屑屋さんと言われた。おじさんの子どもの頃、忘れられない顔が思い出される。なぜだかわからない、いやに鮮明に覚えているのである。とても低姿勢で誰にでも挨拶するお祖父さん、いつもリヤカーを引いていた。おじさんは、缶などの鉄製品を川などから拾い集めて、それをそのお祖父さんのところで買ってもらった。それで仲間とお好み焼きや焼きそばを食べた(その商店の目の前にそのお好み屋はあった)懐かしい思い出がある。今や清掃事業として、お祖父さんの孫の世代に引き継がれている。

 閑話休題。
 最後に「心」を紹介する。著者と(西山)直広という20歳の青年とのメールの交換で話は進んで行く。この青年、彼の親友、そして二人が密かに思いを寄せる女性、そして親友が亡くなり、彼から託された女性への愛の告白の手紙。まさしく夏目漱石の「こころ」の構図(ずっと前に読んだのでしっかり覚えてないが、直接関係あるわけでないからよいだろう。)だ。ここで問われ続けるのは、死、私とは何なのか答えの容易に出ない重い課題。さらに西山青年が東日本大震災で経験した級友一家の死とボランティアでの海からの死体の引き上げによりたくさんの普通でない死に直面し、その疑問はさらに深くなっていく。直広くんはなんとかそれらの困難を乗り越えていく。そしてこの直広くんは自殺した息子とは全く違うものの、その息子と思わず重ねてしまう著者なのである。

 姜さんは在日二世であるが、これは彼が選択したわけではない。愛知県に多い在日ブラジル人(彼らは日系人であることから就労についての制限はない。これは人手不足という資本側からの要請で来日したのだが、当然日本で生まれたブラジル人も多い。今や在留外国人は270万人にも達している。私たちは彼らを労働力(日本の賃金は今や彼らにとって魅力があるものでなくなりつつある)としてだけ考えるのでなく、生活を共にする仲間、隣人として考える必要がある。人口が減少する中で私たちは出自を異にする人々と共生する道を探っていかなければならない。











 

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