醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  998号  白井一道

2019-02-13 13:28:16 | 随筆・小説


   私は忘れない


 私は忘れない。ジラード事件を忘れない。私が小学校五年生の時の事件だ。今から60年ほど前の事件だ。1957年(昭和32年)1月30日、群馬県群馬郡相馬村(現・榛東村)で在日米軍兵士・ウィリアム・S・ジラードが日本人主婦を射殺した事件だ。
 その頃私たちはくず鉄拾いをしては、それを売って少年野球チームのお金にして野球道具を揃えていた。バットやベースやユニホームを揃えていた。くず鉄拾いは私たちの遊びであると同時に胸弾む野球チーム結成への思いであった。
 米軍基地演習場に入ってまだ熱い薬莢を拾う地域の農婦たちがいた。終戦直後の私たち日本人は貧しかった。誰もがくず鉄拾いをして、生活の糧にしていたのだ。そんなくず鉄拾いをしていた日本人農婦に薬莢を投げ与え、その農婦を遊び半分に狙い撃ちして射殺したのだ。
 私は忘れない。ジラード事件を忘れない。60年以上前の事件であっても私は許さない。日本に駐留するアメリカ兵を私は許さない。在日駐留米軍兵士・ウィリアム・S・ジラードに日本を占領した戦勝国アメリカ軍の本質があると私は考えているからだ。
 ジラード事件の目撃者の証言によると、ジラードが主婦に「ママサンダイジョウビ タクサン ブラス ステイ」と声をかけて、近寄らせてから銃を向け発砲した。新聞は毎日この事件について報道した。アメリカ軍への批判の声が日本の世論になった。ジラードが主婦を射殺した時は休憩時間であったことから日本の裁判を受けるべきであると日本側が主張し、アメリカ陸軍が職務中の事件だとしてアメリカ軍事法廷での裁判を主張するなど、アメリカ側からは強い反発もあった。アメリカ軍兵士の戦意を削ぐことをアメリカ軍首脳は懸念したのだ。しかし日本国民の米軍への批判の高まりの前に米軍は日本の裁判に服することに合意した。
 アメリカに住むジラードの家族が「裁判はアメリカでやるべき」と訴えを起こしたが、当局は日本での世論の高まりを考慮して棄却する。ジラードは日本で傷害致死罪で起訴され、前橋地方裁判所で行われた裁判で懲役3年・執行猶予4年の有罪判決が確定した。米軍兵士は日本人農婦を遊びとして殺し、執行猶予が付いた。
 その後、ジラードへの処罰を最大限軽く(殺人罪でなく傷害致死罪で処断)することを条件に、身柄を日本へ移すという内容の密約が日米間で結ばれていたことが1991年にアメリカ政府の秘密文書公開で判明している。日本の外務省が1994年11月20日に行なった「戦後対米外交文書公開」でも明らかとなっている。
 日本政府は駐留米軍に配慮し、日本国民に犠牲を強いている。
 私は忘れない。ジラード事件を日本人の一人として私は許さない。被害者の遺族(夫と6人の子供)には補償金として1,748.32米ドルが支払われたがこれでこの事件が終わったと私には思えない。
 韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長は「米ブルームバーグ通信とのインタビューで、天皇陛下が元慰安婦に直接謝罪をすれば慰安婦問題を解決できると話した際に、(その方(天皇陛下)は戦争犯罪の主犯の息子ではないか)と語っていた」と朝日新聞デジタル版は報じている。私はこの報道を通じてジラード事件を思い出した。被害を受けた人間は一生忘れることはない。決して許すことはない。ただ忘れることはできるかもしれない。
 韓国には昭和天皇を戦争犯罪人だと考えている人がいるという事実を私は知った。北朝鮮に生きる人々の中にも昭和天皇を戦争犯罪人だと思っている人々がいるだろう。ベトナムにも昭和天皇を戦争犯罪人だと思っている人々がいるだろう。勿論中国にも731部隊の被害を受けた人々の中には日本軍人を戦争犯罪人だと思っている大勢の人々がいるだろう。バターン死の行進をさせられたフィリピン人の中には日本軍を許していない人々が今でもいるに違いない。従軍慰安婦に無理やりさせられた人々の中には未だに決して日本軍を許していない人々がいるだろう。そのような現実があることを戦後70年を経てもあることを私は知った。
 私がジラード事件を忘れないように韓国国会議長の文氏は日本軍の慰安婦にされた韓国人女性のことを忘れることはない。日本軍を決して許すことはない。そのような韓国人の日本に対する怒りがあることを私たち日本人は決して忘れてはならないことだと私は考える。日本人は朝鮮人の文化と隣国人だということに配慮し、敬うことを忘れてはならないと思う。

醸楽庵だより  997号  白井一道

2019-02-13 13:28:16 | 随筆・小説


   夜着ひとつ祈出(いのりいだ)して旅寝かな   芭蕉


句郎 元禄4年10月、芭蕉は、「みかはの國鳳来寺に詣。道のほどより例の病おこりて、麓の宿に一夜を明すとて」と前詞を置いてこの句を芭蕉を詠んでいる。
華女 「例の病」とは、持病のことよね。芭蕉は持病持ちだったのね。
句郎 芭蕉の持病は二つあった。延宝9年、美濃国大垣の廻船問屋、木因(ぼくいん)への手紙によって、芭蕉の持病を知ることができる。一つは疝気、胃痙攣のように内臓の痛みと元禄3年、杉風(さんぷう)への手紙、「拙者下血《げけつ》痛《いたみ》候而《さうらひて》、遠境あゆみがたく、伊賀に而《て》 正月初《はじめ》より引込居(《ひつこみをり》申候)とあるから痔病持ちだったのではないか言われている。
華女 「夜着ひとつ」の句の前詞にある「例の病」とは、疝気のことなのかしら。
句郎 そのように考えられている。元禄時代に生きた人々にとって40代の後半になると老境の域だったのではないかと思う。
華女 元禄時代の人々の平均寿命というのは何歳ぐらいだったのかしら。
句郎 江戸時代は身分制社会だったから農民や町人と武士とでは平均寿命が大きく違っていた。元禄時代は平和な時代であったから、武士の平均寿命は農民や町人よりはるかに長い。農民や町人の場合はかなり低かったのではないかと思う。私が調べた限りでいうと農民の平均寿命は25、6歳ぐらい、武士の場合は50歳前後ぐらいのようだ。
華女 芭蕉の身分は農民だったのよね。農民にしては51歳で亡くなった芭蕉は長生きした方なのね。
句郎 厳しい農作業を強制されることなく、芭蕉は俳諧師として生きたからかもしれない。公家や武士だけが人間として扱われる社会にあって、人間以下の人間であった芭蕉が51歳まで生きられたということは凄いことだと思う。
華女 疝気や痔の病を持って生きたということよね。芸は身を助くと、言うように芭蕉は俳諧という芸によって生き、死んだ人生だったのね。
句郎 芭蕉の止まった宿がどのような宿であったのか、分からない。勿論、敷きの部屋ではなかった。板の上に藁敷のような部屋に夜着に包まり、痛みに耐えていたのではないのかな。
華女 そうなのかもしれないわ。「祈りいだして」と詠んでいるわ。一晩中、お経を唱え、痛みに耐えていたのかもしれないわ。
句郎 寒さと腹の痛みが紡ぎだした句が「夜着ひとつ」の句だったのかもしれない。
華女 農民は耐える力が強いのよ。きっと芭蕉には農民の濃い血が流れていたのよ。
句郎 耐え抜いた気持ちが爆発したのが芭蕉の句だったのかもしれない。
華女 冬の夜、夜着一つ身にまとい、粗末な宿で一夜を明かしても、それが苦しかったと一言も言わない。凄いことね。
句郎 この句の異型の句を岩波文庫『芭蕉俳句集』は紹介してくれている。
「夜着ひとついのり出したる寒かな」。「夜着一つ祈り出したる旅ね哉」と二つの異型の句を紹介してくれている。華女さんは度の句が好きかな。
華女 漢字で書くか、平仮名で書くかと、いうことを芭蕉は考えぬいているということね。ここから俳句という文芸は書いたものを読者は読み鑑賞する文芸だということが分かるわ。
句郎 漢字で書くか、平仮名かと、いうこと読者の印象は違って感じるかもしれないないからな。
華女 私は「夜着ひとついのり出したる寒かな」が好きよ。夜明けとともにお腹の痛みが和らぎ、寒さが身に沁みてきたと、ほっとした芭蕉の気持ちが伝わってくるように感じるのよ。
句郎 お腹の痛みに苦しんでいるときには寒さを感じなかったということなのかな。
華女 「寒かな」の句には開放感があるように思う。