醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  1007号  白井一道

2019-02-24 14:51:44 | 随筆・小説


  短歌は歌う。俳句はひねる。

句郎 今日は短歌と俳句の違いについて考えてみたい。
華女 難しそうな問題ね。
句郎 哲学の命題に「歴史的なもの」と「論理的なもの」という問題がある。
華女 歴史的なものと論理的なものとは関係があるのかしら。
句郎 「歴史的なもの」と「論理的なもの」とには同一性があるということなんだ。だから短歌と俳句の違いについて考えるには歴史的にまず考えてみると論理的に短歌と俳句の違いが見えてくるということなんだ。
華女 まず短歌の始まりというのは『万葉集』よね。
句郎 そう。だから『万葉集』の歌とは歌うものだった。例えば万葉の情熱的な女性の歌人というと額田王でしょ。私は高校生の頃「あかねさす むらさきのゆき しめのゆき 野守がみるや 君のそでふる」という歌を習ったことを覚えている。
華女 君というのは後の天武天皇、大海人皇子のことよね。
句郎 あなたがそんなに袖を振って私に呼びかけるのを野守が見ているじゃないですかと、額田王は恥じらいながら歌っている。
華女 大海人皇子は額田王の歌を聞き、「紫草のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも」と返しているわ。
句郎 大海人皇子が蒲生野で狩りをしたときに、額田王が詠んだ歌だと言われている。額田王は大海人皇子との間に子供をもうけていたが、この歌を額田王が詠んだ時にはすでに額田王は大海人皇子の兄、中大兄皇子、後の天智天皇の妻になっていた。
華女 飛鳥時代の男女関係はおおらかな社会だったのよね。妻問婚だったからよね。女は飛鳥の昔から男が帰るのを待っていたのよ。男が通ってこなくなったら女は捨てられたも同然だったのよ。
句郎 大海人皇子は額田王に未練があったのじゃないのかな。だから大海人皇子は額田王に袖を振った。
華女 額田王も大海人皇子に対してのまだ熱い気持ちが残っていたのよね。
句郎 そうなんだろうな。男女の関係の厳しさがなかったのだろう。おおらかに男も女も自分の気持ちを声に出して歌った。まだ平仮名が生れる前の社会だった。文字は万葉仮名といわれる漢字の音を日本語の音に使ったものだった。万葉仮名を用いられる女性は少なかった。万葉仮名を使える人は大変なエリートだった。そのような社会における若い男女は自分の気持ちを声に出して歌う以外に方法がなかった。和歌とは平安時代に至るまでは実際に声に出して歌うものだった。その伝統は宮中において継承され、現在に至るまで続いている。天皇家にあっては今も歌会初めの儀が行われている。
華女 俳句は歌うものではないのかしら。
句郎 俳句は読んで楽しむもの。歌うことはない。『古今和歌集』の最後に俳諧歌が載せられている。室町時代になると連歌が流行し、その中から「俳諧の連歌」が生れた。俳諧とは笑いの歌だ。その笑いとは卑猥なものだった。卑猥なものであるがゆえに庶民の間に広がった。その中から俳句は生れて来る。
華女 芭蕉が楽しんだものも「俳諧の連歌」というものだったのよね。
句郎 そう、芭蕉が詠んだ句とは俳諧の発句というものだった。この発句というもの五七五を懐紙に書いた。懐紙に書かれた発句を読み、脇の句七七と詠み継いだ。
華女 「第三」はまた五七五と詠んでいくのよね。
句郎 懐紙に書かれた句を読み、鑑賞し、その世界を捻って新しい世界を詠むということなのかな。
華女 芭蕉は言葉を磨き、卑猥で下品なものだった笑いの文芸を上品なものにしたのが芭蕉の俳句なのね。
句郎 江戸時代の町人や農民たちが文字、平仮名、漢字を覚え、懐紙に書く文芸を獲得した。それが俳句だった。俳句は書かれた句を読み味わう文芸として始まった。