俳諧の発句と俳句との違いは何か
句郎 俳諧の発句と俳句とは、何が違うのかな。
華女 俳句は一人詠むものよ。俳諧の発句は何人かの仲間、座を同じくする者とともに詠むものなんじゃないの。
句郎 俳諧と言うのは仲間がいて、初めて成り立つ知的な遊びかな。
華女 俳句もまた仲間がいて初めて成り立つ遊びのようにも感じるわ。そうでしょ。句会があって俳句があるのよ。鑑賞してくれる仲間がいなければ俳句は成り立たないように思うわ。
句郎 俳諧の座というもの
と句会とは、違うよね。
華女 俳句は句会があって初めて成り立つということは、俳句という文芸は俳句作者は同時に俳句鑑賞者であるということよ。
句郎 俳句作者は同時に俳句読者であるということなのかな。
華女 そうなんじゃないのかしら。
句郎 俳諧と俳句とは共通するものがあると同時に違いもあるということなのかな。
華女 俳諧の場合は同人が同じ部屋で句を詠んでいくのでしょ。それぞれが懐紙を持ち、客人が発句
を詠むとその句を皆が書き留め次の亭主が詠む脇を書き留める。次の仲間が第三を詠む。このようにして懐紙の初折、表6句を詠み継ぎ、それぞれが書き留めていく。そのようなことをするのが俳諧よね。
句郎 だから俳諧の発句は座の仲間の句に大きな影響を与えることになる。
華女 その結果、俳諧の発句には制約ができてきたんでしょ。
句郎 そうなんじゃないのかな。文芸評論家、山本健吉が俳句の特徴として挙げているものが三つある。その一つが挨拶ということ、二つ目が即興であるということ、三つ目が諧謔だと述べている。この俳句の特徴とは、俳句の特徴ではなく、俳諧の発句の特徴なのではないかと思う。
華女 俳句は俳諧の発句を発展させたものだから色濃く発句の影響下にはあるけれども、俳句は俳諧の発句とは違うものだということなのね。
句郎 よく芭蕉の句は俳諧の発句だけれども正岡子規の句は俳句だと昔教わった。しかし、芭蕉の句の中にはすでに立派な俳句になっているものがあるように感じているんだ。例えば「五月雨を集めて早し最上川」。この句は俳諧の発句ではなく、俳句になっているように思う。
華女 「毎年よ、彼岸の入りの寒いのは」。この句は子規の人に知られた句の一つよね。この句には確かに挨拶性があるように感じるのよ。隣近所の奥さん同時の挨拶の言葉のように感じるわ。即興性もあると思うわ。冷ややかな笑いもあるように思うのよ。俳句には俳諧の発句の強い影響があるように思うわ。
句郎 亡き母の生前の口癖がそのまま句になった。ここには彼岸の入りの頃の季節感が表現されている。この季節の真実を表現した句になった。
華女 俳句は俳諧の発句の制約から解放され、自立した文芸にはなったが、強い俳諧の発句の影響下にあるということなのね。
侘助 芭蕉の最も有名な句の一つ「閑さや岩にしみいる蝉の声」、この句も芭蕉は俳諧の発句として詠んだものだと思うが、立派な自立した俳句になっている。