宿かりて名を名乗らするしぐれ哉 芭蕉
句郎 元禄4年、芭蕉は島田宿、大井川の川庄屋塚本如舟亭に招かれて詠んだ挨拶吟のようだ。
華女 川庄屋とは、どんな仕事をしていた人なのかしら。
句郎 大井川の川越人足数百人を抱える親方が川庄屋と言われていた人のようだよ。
華女 大井川には橋が架けられていなかったのね。
句郎 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と唄われていた
からな。
華女 大井川の関所は厳しかったということなのかしら。
句郎 江戸幕府が大井川に橋を架けることを許さなかった。その理由は「入り鉄砲に出女(でおんな)」。江戸に武器が持ち込まれることを防ぐ。また各藩の江戸住まいの女が国許に帰ることを禁止していた。江戸幕府は大井川に橋を架けることを禁止した。その結果、川越人足が板の上に人を乗せ、川を渡った。
華女 芭蕉は肩車に乗って川を渡ったのかしら。冬
の川だから川幅も狭く、それほど深い所も無かったのではないかと思うわ。芭蕉が元禄4年に大井川を渡ったのは旧暦の10月下旬の頃だったのでしょう。新暦に直すと12月の中旬の頃みたいだから、川の水は冷たかったんじゃないのかしら。
句郎 真冬の大井川を肩車して渡ったとしたらどのくらいのお金がかかったのかな。
華女 芭蕉は、江戸に向かっていたのよね。大井川を渡ったところが島田宿よね。
句郎 芭蕉は川庄屋塚本如舟とは知り合いたったのじゃないのかな。芭蕉は東海道を何回か、行き来しているからな。その度に芭蕉は如舟亭で俳諧を楽しんでいたのかもしれない。だから長い前詞がある。「時雨いと侘しげに降り出ではべるまま、旅の一夜を求めて、炉に焼火して濡れたる袂をあぶり、湯を汲みて口をうるほすに、あるじ情あるもてなしに、しばらく客愁の思ひ慰むに似たり。暮れて燈火のもとにうちころび、矢立取り出でて物など書き付くるを見て、「一言の印を残しはべれ」と、しきりに乞ひければ、」と芭蕉は書き、この句を残している。
華女 芭蕉と如舟は親しい知り合い、友人だったのかもしれないわね。
句郎 突然、芭蕉は塚本如舟宅を訪ね、一泊の宿を求めたのかもしれない。
突然時雨れて来たので、名を名乗る気持ちになりました。一宿お願いできませんかとね。「そんな飛んでもないことだ。よくぞ私を頼ってくれた。ありがたい話だ。今宵、芭蕉さんと俳諧を楽しめるじゃないですか」と如舟は浮き浮きして芭蕉を招き入れてくれた。
華女 芭蕉は慎み深く如舟邸に上がり、挨拶をかわしたのね。
句郎 「宿かりて名を名乗らするしぐれ哉」と知り合いを頼ったことをそのまま詠んだ。
華女 「光を放せ凩の月」と如舟は芭蕉の発句に対して付けているみたいよ。
句郎 芭蕉の発句に対して如舟はただちに冬の月を詠み、答えているということなのかな。
華女 俳諧と言うのは、対話の遊びだったのね。対話が楽しいのよね。