徒然草116段『寺院の号(ごう)』
原文
寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、たゞ、ありのまゝに、やすく付けけるなり。この比は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり。
現代語訳
寺院の名、そればかりでなくすべての物に名を付けることを昔の人は少しもそのようなことはせず、ただありのままに気安く付けていた。この頃は深く考え、教養をひけらかしているかのように感じられるから実に難しい。人の名も見慣れない文字を付けようとすることは無駄なことである。
原文
何事も、珍しき事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。
現代語訳
何事も珍しい事をしようとして、異なったことを好むことは、浅はかな人が必ずすることであるぞ。
露路裏の駄菓子屋 白井一道
北千住の路地裏の街並みを歩き回ったことがある。もう十年ほど前のことになるだろうか。定年退職後、東京は新宿に仕事を得て、週に二度ほど通っていたころのことだ。子供だった頃の懐かしさのようなものを求めて北千住の街の路地裏をあてどなく歩いた。昔となんら変わることのない銭湯がある。薄黒い暖簾をくぐって老人が入って行く。あー、昔、このような風景を見たな。私の経験では銭湯の前には焼き鳥屋があり、コップ酒を飲む親爺たちがいた。焼き鳥屋から上がる煙がない。道幅が広がり、道路には自動車が走っている。ポツンと残った銭湯の入り口に昔を発見した。
小さな路地に入り、歩いて行くと駄菓子屋と看板のかかった小さな店があった。薄暗い店の奥におばぁさんがいる。小学校低学年の子供たちが駄菓子屋に入って行く。子供の声とおばぁさんの声が聞こえる。ここには私が子供だった頃の街が残っていた。駄菓子屋とのみ書かれたトタン板の看板をじっと眺めていた。