徒然草131段 『貧しき者は』
原文
貧しき者は、財(たから)をもッて礼とし、老いたる者は、力をもッて礼とす。己が分を知りて、及ばざる時は速かに止むを、智といふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強ひて励むは、己れが誤りなり。
現代語訳
貧しい者は財貨を出すことが礼だと心得、老いた者は力仕事をすることが礼だと心得る。己の分際をわきまえ、出過ぎたと思ったときは直ちに止めることが賢いということであろう。受け入れ難いことは人の間違いだ。分をわきまえず無理して励むことは己の間違いだ。
原文
貧しくして分を知らざれば盗み、力衰へて分を知らざれば病を受く。
現代語訳
貧しいにもかかわらずに分相応のことをしないでいると盗みをするようなことになるし、老いて力が衰えているにもかかわらず力仕事をしていると病気になる。
自画像を描く画家、ゴッホ 白井一道
ファン・ゴッホは10年ほどの画業の中で、パリに移住して以降約37点の自画像を描き残している。ゴッホが自画像を描いた理由として、「彼がモデルを雇う金がなかったため、手っ取り早く自身を描くことにしたというものと、まず自画像を描くことで他人の肖像画を上手く描けるようになるための習作としたという理由が考えられている。また、パリ移住以前の自画像がないのは、像が映るほどの大きさの鏡を持っていなかったためとされている」と『ウィキペディア(Wikipedia)』は説明している。この理由は外的理由に過ぎない。ゴッホが自画像を描いた理由は自分を知りたいためであった。いくら描いてもゴッホは自分を知る事ができなかった。描けば描くほど自分の存在が分からなくなった。だから37点もの自画像を描き残した。
絵を描かずにはいられない自分とは何なのか。なぜそんなに絵を描きたいのか。俺の顔には何が表現されているのか、それを知りたい。俺は今、端正なものを求めているのか。俺の顔もなかなか端正なものじゃないか。薄暗い光の中でパイプを咥え、煙草を吸っている俺の顔の中にある真実とは何なんだ。それが知りたい。この薄暗い光の中では私の顔の真実は表現できていないな。俺はもっと明かりを求めている。明かりだ。明かりだ。明るい太陽の光の入る部屋で絵を描く俺の顔には何があるのか。部屋の明りの中で、その明かりに太陽の光を感じているのか、太陽の明り、いや光を探し求めている俺の顔がある。その明かりを得た。この自画像に表現されているのは明かりだ。ああ、今俺が探し求めているものは光なんだ。この光を表現したい。
ガス灯の明りの中で「ジャガイモを食べる人々」の顔に当たる明かりには人間の生きる喜びがあるな。あの明かりではない太陽の光の中に人間の真実があるように感じる。太陽の光だ。太陽の光の中に人間の真実はあるに違いない。もっともっと太陽の光を求めているのが俺の顔なんだ。俺の目は何をじっと見ているのか。目が輝いているじゃないか。この目だよ。この目を表現したいのだ。俺は太陽の光を求めている。光を求める目をしている。この目なんだ。
「黒いフェルト帽を被る自画像」だ。太陽の光があたる俺の左側の顔には生気が宿っているが顔の右側には深く沈んだ気持ちが表現されているじゃないか。光は人間の心を表現する。光だ。光を求めて南仏に行こう。日本の浮世絵のこの明るさはなんだ。太陽の光がこのような絵を生んだに違いない。日本にある太陽の光を求めて南仏に行こう。
冬の光と夏の光では柔らかさが違うな。太陽の光がその真価を発揮するのは夏の太陽の光だ。夏の太陽の光を求めて南仏に行こう。太陽の光を表現できるものは「ひまわり」だ。ヒマワリを描こう。ひまわりを描くには夏だ。夏の太陽の光を描きたい。夏の太陽の光に当たる俺の顔を描こう。夏の太陽の光を表現したい。夏の太陽の光に人間が求めるものがあるに違いない。人間は誰でもが夏の太陽の光を求めているのだ。夏の太陽の光の中にいるとじっとしていることができない。描かなければならない。今、この光を描かなければならない。光は絶えず移ろうものだ。この光を求めて止まない俺の顔を描いておこう。
己を知るためゴッホは自画像を描いた。