醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1293号   白井一道

2020-01-06 11:35:08 | 随筆・小説



    徒然草118段『鯉の羹(あつもの)食ひたる日は』




原文
 鯉の羹(あつもの)食ひたる日は、鬢(びん)そゝけずとなん。膠(にかは)にも作るものなれば、粘りたるものにこそ。

現代語訳
 鯉のお吸い物を食べた日は、髪の毛が乱れることがない。膠の材料にもなるものだから粘っているからなのだろう。

原文
 鯉ばかりこそ、御前にても切らるゝものなれば、やんごとなき魚なり。鳥には雉、さうなきものなり。雉・松茸などは、御湯殿(みゆどの)の上に懸りたるも苦しからず。その外は、心うき事なり。中宮の御方の御湯殿の上の黒み棚に雁の見えつるを、北山入道殿の御覧じて、帰らせ給ひて、やがて、御文にて、「かやうのもの、さながら、その姿にて御棚にゐて候ひし事、見慣はず、さまあしき事なり。はかばかしき人のさふらはぬ故にこそ」など申されたりけり。

現代語訳
 鯉だけが天皇の御前で料理されるものだから貴重な魚なのだ。鳥では雉が並ぶもののないものだ。雉や松茸などは、天皇がご入浴されるお風呂の上に置いてあったとしても見苦しいことはない。その他はあってはならないことだ。皇后さまのご入浴されるお風呂の上の黒い棚に雁が見えるのを皇后さまの父上がご覧になり、御帰りになった後、やがて文書をしたため、「このようなものがあたかもその姿そのものが棚の上に置いてあることは見慣れないことであり、そのような状態はよくない事だ。しっかりした意見をいう人がいないからなのだろう」などとおっしゃられたという。


 礼儀が社会を秩序したのが中世社会だ 白井一道
 普段の日本人はグダグダしているのに、学校の入学式や卒業式になると物々しく、厳かにするのねと、話す日本人と結婚したアメリカ人女性がいた。確かにアメリカの小学校やハイスクールでは日本のような厳粛な入学式や卒業式は執り行われていないようだ。もっと自由に楽しむ行事のようだ。
 中学生だった頃、体育祭の行進の練習をさせられた経験がある。その時、私はこのような行進練習にバカバカしさを感じて、不貞腐れて歩いた時、体育担当の教師から全校生徒の前で大声をあげて叱責された経験がある。これは私の経験ではないが友人の一人が隣の者とおしゃぺりし、口を開け、声を出さずに笑った。その白い歯を見つけた教師が全校生徒の前で歯を見せて笑うようなことはするなと厳しく注意した。
 高校ではこのようなことがあった。一学期の終業式にのぞんだ生徒たちを特に教師たちが指導することはなかった。学年ごと、クラス毎に一列になんとなく並んで校長の訓辞を聞いていた。話の内容は何も記憶に残っていない。記憶に残っていることは、終業式を終え、教室に帰って来たときである。担任教師が珍しく帰りのホームルームをしたのだ。そして発言した。終業式のだらしないおしゃべりの多い終業式というものはいかがなものか。もっときちんとした終業式にならないものなのかと、発言した。この教師の発言に後に国立有名大学に入学した生徒が発言した。「校長先生の話は聴くに値しない話だ。隣の小学校の校長先生の話となんら変わることのないつまらない話だ」と。この生徒の話に担任教師は「たとえ、君の主張が正しいとしても礼儀というものがあるのじゃないか」と言った。この担任教師の発言に生徒は何も言わなかった。
 礼儀というものは人と人との関係を秩序立てる働きがある。礼儀そのものに豊かな意味内容がなかったとしても、礼儀が人間関係を組織する。その結果、礼儀が秩序に意味内容を付与するようになる。
 今までお辞儀をしてくれた人が、廊下で出会っても知らんぷりして過ぎ去っていく。人の世の冷たさを実感する時だ。定年退職し、役職を失い、単なる事務員に格下げされた公務員が味わう悲哀である。今までお辞儀をしてくれたのは、私に対してではなく、私の机にたいしてお辞儀をしてくれていたのだと実感するときだ。
 礼法が社会が規律し、人間関係が組織された社会が中世封建社会なのではないかと私は考えている。日本では礼法が重視されているところが学校という組織のようだ。分掌の一つとして学校には儀式がある。儀式を執り行う仕事が役割分担の一つとして存在している。儀式は封建遺制の一つである。