醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1313号   白井一道

2020-01-30 10:58:32 | 随筆・小説




   徒然草138段 『祭過ぎぬれば』



原文
 「祭過ぎぬれば、後の葵不用なり」とて、或人の、御簾(みす)なるを皆取らせられ侍(はんべ)りしが、色もなく覚え侍(はんべ)りしを、よき人のし給ふ事なれば、さるべきにやと思ひしかど、周防内侍(すはうのないし)が、
かくれどもかひなき物はもろともに
みすの葵の枯葉なりけり
と詠めるも、母屋の御簾に葵の懸りたる枯葉を詠めるよし、家の集に書けり。古き歌の詞書に、「枯れたる葵にさして遣(つか)はしける」とも侍(はんべ)り。枕草子にも、「来しかた恋しき物、枯れたる葵」と書けるこそ、いみじくなつかしう思ひ寄りたれ。鴨長明が四季物語にも、「玉垂(たまだれ)に後の葵は留(とま)りけり」とぞ書ける。己れと枯るゝだにこそあるを、名残なく、いかゞ取り捨つべき。

現代語訳
 「賀茂神社の祭が過ぎてしまうと後に残った葵は不用だ」と、或る人が御簾に懸けてある葵をすべて取り払わられましたが、情緒が無くなってしまうなと思われましたが、見識ある人がなさることなのだから、このようにするべきことなのかと思われたけれど、周防内侍(すはうのないし)が、「かくれどもかひなき物はもろともにみすの葵の枯葉なりけり(いくら掛けても掛け甲斐のないものは御簾と一緒に見ることはない葵の枯葉なりけり)」と詠まれたのも、母屋(もや)の御簾(みす)にかけてある葵の枯葉を詠まれたわけのようで、周防内侍(すはうのないし)の歌集に書いてある。古い歌の詞書に「枯れた葵の葉にさしてこの歌をおくられた」とも伺っている。枕草子にも「昔の恋しかったもの。それは枯れた葵」と書いている事こそ、特に懐かしく思われる。鴨長明が四季物語にも「美しい御簾に賀茂祭後の葵が残っている」と書いている。自然に枯れていくことにさえ惜しまれるのに、名残なくいかに取捨てることができようか。

原文
 御帳(みちやう)に懸(かか)れる薬玉(くすだま)も、九月九日、菊に取り替へらるゝといへば、菖蒲は菊の折までもあるべきにこそ。枇杷皇太后宮(びはのくわうたいこうくう)かくれ給ひて後、古き御帳の内に、菖蒲・薬玉などの枯れたるが侍りけるを見て、「折ならぬ根をなほぞかけつる」と辨(べん)の乳母(めのと)の言へる返事に、「あやめの草はありながら」とも、江侍従が詠みしぞかし。

現代語訳
 御帳(みちやう)に懸けてある薬玉も、九月九日に菊に取り換えられるというのなら、菖蒲は菊の節句までもあるべきだと枇杷皇太后宮(びはのくわうたいこうくう)が亡くなられた後、古い御帳(みちやう)の中に菖蒲・薬玉などの枯れているのを見て「季節外れの根が今なお掛けられている」と辨(べん)の乳母(めのと)が言った返事に「あやめの草はありながら」とも、江侍従がよんで居る。

 葵祭について    白井一道
 石清水祭、春日祭と共に三勅祭の一つであり、庶民の祭りである祇園祭に対して、賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族たちが見物に訪れる、貴族の祭となった。京都市の観光資源としては、京都三大祭りの一つ。
平安時代以来、国家的な行事として行われてきた歴史があり、日本の祭のなかでも、数少ない王朝風俗の伝統が残されている。
葵の花を飾った平安後期の装束での行列が有名。斎王代が主役と思われがちだが祭りの主役は勅使代である。源氏物語中、光源氏が勅使を勤める場面が印象的である。大気の不安定な時期に行われ、にわか雨に濡れることが多い。
葵祭は賀茂御祖神社と賀茂別雷神社の例祭で、古くは賀茂祭、または北の祭りとも称し、平安中期の貴族の間では、単に「祭り」と言えば葵祭のことをさしていた。賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代の1694年(元禄7)に祭が再興されてのち、当日の内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉で飾るようになって、この名があるとされる。
    『ウィキペディア(Wikipedia)』より