醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  1001号  白井一道

2019-02-18 12:34:44 | 随筆・小説


 ままごとのめしもおさいもつくしかな    ほしのたつこ



 「ままごと」の映画を見た。大人の「ままごと」だった。お婆さんがいる。おとうさんがいる。お母さんがいる。娘がいる。男の子と幼い女の子がいる。そんな家族の「ままごと」遊びの映画だった。画面を見ていると心の中に温かい思いが満ちてくる。お伽の国の家族の「ままごと」遊びの物語だった。テーマは愛と絆。愛とはやさしさ、絆とは思いやりだと教えられた。
 「ままごとのめしもおさいもつくしかな」。
 野原に出る土筆を摘んで「ままごと」の飯のおかずにするように街のスーパーからお菓子を、果物を洗濯石鹸を盗んでくる。大人の「ままごと」は犯罪である。犯罪であるがゆえにこの家族は破綻する。お伽噺は現実にぶつかり目が覚める。
 このお伽噺にある真実は現代日本社会にある冷たさである。我が子を殺す父親がいる。母親がいる社会の現実を表現している。
 映画の題名は『万引き家族』監督・是枝裕和。

醸楽庵だより  1000号  白井一道

2019-02-17 13:40:58 | 随筆・小説
  


 象という宇宙冬の動物園  浅井慎平

 テレビの俳句番組を見て、浅井氏の俳句を知った。動物園の象は象ではないと浅井氏は述べていた。この言葉を聞いて、私は浅井氏の俳句が表現していることを理解した。動物園とは自然の存在としての動物を殺しているところだと私は理解した。人間存在の残酷さを浅井氏は動物園に飼われている象に発見した句だと思った。
 私たちは毎日牛肉や豚肉、鶏肉など食べ生きている。牛や豚、鶏を殺し、精肉にしたものを肉屋で購入し、いただいている。すき焼きを食べて私は牛を殺すことが残酷なことだと感じたことがない。牛をする現場を私は見たことがないからかもしれない。する現場を知らない私たちだから牛肉を美味しくいただけるのかもしれない。
 昔、『帰らざる河』という映画を見た。激流の川を筏に乗ったマリリン・モンローと相手役のロバート・ミッチャムが流れていく。この中で川岸に小鹿に出て来る。この小鹿を見たマリリン・モンローが言う。「美味しそうな小鹿ね」と美しい女性、マリリン・モンローが言う。肉食の歴史の浅い日本人の感覚と肉食の歴史が長い国の食文化の違いを感じた出来事だった。
 ネズミが家に入り込み、天井を走り回る音がする。ネズミ捕りの道具を買い求め、米粒をまき、ネズミが捕れるのを待った。とうとうネズミは米粒に寄せ付けられ捕ることに成功した。トリモチに足がくっつき、動けなくなっているネズミの姿に哀れを私は感じたが、折り畳み可燃ごみの日に情け容赦なく捨てた。
 人間と平和共存できる野生動物とできない野生動物がいる。害獣と益獣だ。象は人間と平和共存できる動物の一つであろう。家畜化した象に象の死を浅井氏は発見した句が「象という宇宙冬の動物園」だったのかもしれない。


醸楽庵だより  999号  白井一道

2019-02-16 13:03:28 | 随筆・小説


  俳諧の発句と俳句との違いは何か


句郎 俳諧の発句と俳句とは、何が違うのかな。
華女 俳句は一人詠むものよ。俳諧の発句は何人かの仲間、座を同じくする者とともに詠むものなんじゃないの。
句郎 俳諧と言うのは仲間がいて、初めて成り立つ知的な遊びかな。
華女 俳句もまた仲間がいて初めて成り立つ遊びのようにも感じるわ。そうでしょ。句会があって俳句があるのよ。鑑賞してくれる仲間がいなければ俳句は成り立たないように思うわ。
句郎 俳諧の座というもの
と句会とは、違うよね。
華女 俳句は句会があって初めて成り立つということは、俳句という文芸は俳句作者は同時に俳句鑑賞者であるということよ。
句郎 俳句作者は同時に俳句読者であるということなのかな。
華女 そうなんじゃないのかしら。
句郎 俳諧と俳句とは共通するものがあると同時に違いもあるということなのかな。
華女 俳諧の場合は同人が同じ部屋で句を詠んでいくのでしょ。それぞれが懐紙を持ち、客人が発句
を詠むとその句を皆が書き留め次の亭主が詠む脇を書き留める。次の仲間が第三を詠む。このようにして懐紙の初折、表6句を詠み継ぎ、それぞれが書き留めていく。そのようなことをするのが俳諧よね。
句郎 だから俳諧の発句は座の仲間の句に大きな影響を与えることになる。
華女 その結果、俳諧の発句には制約ができてきたんでしょ。
句郎 そうなんじゃないのかな。文芸評論家、山本健吉が俳句の特徴として挙げているものが三つある。その一つが挨拶ということ、二つ目が即興であるということ、三つ目が諧謔だと述べている。この俳句の特徴とは、俳句の特徴ではなく、俳諧の発句の特徴なのではないかと思う。
華女 俳句は俳諧の発句を発展させたものだから色濃く発句の影響下にはあるけれども、俳句は俳諧の発句とは違うものだということなのね。
句郎 よく芭蕉の句は俳諧の発句だけれども正岡子規の句は俳句だと昔教わった。しかし、芭蕉の句の中にはすでに立派な俳句になっているものがあるように感じているんだ。例えば「五月雨を集めて早し最上川」。この句は俳諧の発句ではなく、俳句になっているように思う。
華女 「毎年よ、彼岸の入りの寒いのは」。この句は子規の人に知られた句の一つよね。この句には確かに挨拶性があるように感じるのよ。隣近所の奥さん同時の挨拶の言葉のように感じるわ。即興性もあると思うわ。冷ややかな笑いもあるように思うのよ。俳句には俳諧の発句の強い影響があるように思うわ。
句郎 亡き母の生前の口癖がそのまま句になった。ここには彼岸の入りの頃の季節感が表現されている。この季節の真実を表現した句になった。
華女 俳句は俳諧の発句の制約から解放され、自立した文芸にはなったが、強い俳諧の発句の影響下にあるということなのね。
侘助 芭蕉の最も有名な句の一つ「閑さや岩にしみいる蝉の声」、この句も芭蕉は俳諧の発句として詠んだものだと思うが、立派な自立した俳句になっている。

醸楽庵だより  998号  白井一道

2019-02-13 13:28:16 | 随筆・小説


   私は忘れない


 私は忘れない。ジラード事件を忘れない。私が小学校五年生の時の事件だ。今から60年ほど前の事件だ。1957年(昭和32年)1月30日、群馬県群馬郡相馬村(現・榛東村)で在日米軍兵士・ウィリアム・S・ジラードが日本人主婦を射殺した事件だ。
 その頃私たちはくず鉄拾いをしては、それを売って少年野球チームのお金にして野球道具を揃えていた。バットやベースやユニホームを揃えていた。くず鉄拾いは私たちの遊びであると同時に胸弾む野球チーム結成への思いであった。
 米軍基地演習場に入ってまだ熱い薬莢を拾う地域の農婦たちがいた。終戦直後の私たち日本人は貧しかった。誰もがくず鉄拾いをして、生活の糧にしていたのだ。そんなくず鉄拾いをしていた日本人農婦に薬莢を投げ与え、その農婦を遊び半分に狙い撃ちして射殺したのだ。
 私は忘れない。ジラード事件を忘れない。60年以上前の事件であっても私は許さない。日本に駐留するアメリカ兵を私は許さない。在日駐留米軍兵士・ウィリアム・S・ジラードに日本を占領した戦勝国アメリカ軍の本質があると私は考えているからだ。
 ジラード事件の目撃者の証言によると、ジラードが主婦に「ママサンダイジョウビ タクサン ブラス ステイ」と声をかけて、近寄らせてから銃を向け発砲した。新聞は毎日この事件について報道した。アメリカ軍への批判の声が日本の世論になった。ジラードが主婦を射殺した時は休憩時間であったことから日本の裁判を受けるべきであると日本側が主張し、アメリカ陸軍が職務中の事件だとしてアメリカ軍事法廷での裁判を主張するなど、アメリカ側からは強い反発もあった。アメリカ軍兵士の戦意を削ぐことをアメリカ軍首脳は懸念したのだ。しかし日本国民の米軍への批判の高まりの前に米軍は日本の裁判に服することに合意した。
 アメリカに住むジラードの家族が「裁判はアメリカでやるべき」と訴えを起こしたが、当局は日本での世論の高まりを考慮して棄却する。ジラードは日本で傷害致死罪で起訴され、前橋地方裁判所で行われた裁判で懲役3年・執行猶予4年の有罪判決が確定した。米軍兵士は日本人農婦を遊びとして殺し、執行猶予が付いた。
 その後、ジラードへの処罰を最大限軽く(殺人罪でなく傷害致死罪で処断)することを条件に、身柄を日本へ移すという内容の密約が日米間で結ばれていたことが1991年にアメリカ政府の秘密文書公開で判明している。日本の外務省が1994年11月20日に行なった「戦後対米外交文書公開」でも明らかとなっている。
 日本政府は駐留米軍に配慮し、日本国民に犠牲を強いている。
 私は忘れない。ジラード事件を日本人の一人として私は許さない。被害者の遺族(夫と6人の子供)には補償金として1,748.32米ドルが支払われたがこれでこの事件が終わったと私には思えない。
 韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長は「米ブルームバーグ通信とのインタビューで、天皇陛下が元慰安婦に直接謝罪をすれば慰安婦問題を解決できると話した際に、(その方(天皇陛下)は戦争犯罪の主犯の息子ではないか)と語っていた」と朝日新聞デジタル版は報じている。私はこの報道を通じてジラード事件を思い出した。被害を受けた人間は一生忘れることはない。決して許すことはない。ただ忘れることはできるかもしれない。
 韓国には昭和天皇を戦争犯罪人だと考えている人がいるという事実を私は知った。北朝鮮に生きる人々の中にも昭和天皇を戦争犯罪人だと思っている人々がいるだろう。ベトナムにも昭和天皇を戦争犯罪人だと思っている人々がいるだろう。勿論中国にも731部隊の被害を受けた人々の中には日本軍人を戦争犯罪人だと思っている大勢の人々がいるだろう。バターン死の行進をさせられたフィリピン人の中には日本軍を許していない人々が今でもいるに違いない。従軍慰安婦に無理やりさせられた人々の中には未だに決して日本軍を許していない人々がいるだろう。そのような現実があることを戦後70年を経てもあることを私は知った。
 私がジラード事件を忘れないように韓国国会議長の文氏は日本軍の慰安婦にされた韓国人女性のことを忘れることはない。日本軍を決して許すことはない。そのような韓国人の日本に対する怒りがあることを私たち日本人は決して忘れてはならないことだと私は考える。日本人は朝鮮人の文化と隣国人だということに配慮し、敬うことを忘れてはならないと思う。

醸楽庵だより  997号  白井一道

2019-02-13 13:28:16 | 随筆・小説


   夜着ひとつ祈出(いのりいだ)して旅寝かな   芭蕉


句郎 元禄4年10月、芭蕉は、「みかはの國鳳来寺に詣。道のほどより例の病おこりて、麓の宿に一夜を明すとて」と前詞を置いてこの句を芭蕉を詠んでいる。
華女 「例の病」とは、持病のことよね。芭蕉は持病持ちだったのね。
句郎 芭蕉の持病は二つあった。延宝9年、美濃国大垣の廻船問屋、木因(ぼくいん)への手紙によって、芭蕉の持病を知ることができる。一つは疝気、胃痙攣のように内臓の痛みと元禄3年、杉風(さんぷう)への手紙、「拙者下血《げけつ》痛《いたみ》候而《さうらひて》、遠境あゆみがたく、伊賀に而《て》 正月初《はじめ》より引込居(《ひつこみをり》申候)とあるから痔病持ちだったのではないか言われている。
華女 「夜着ひとつ」の句の前詞にある「例の病」とは、疝気のことなのかしら。
句郎 そのように考えられている。元禄時代に生きた人々にとって40代の後半になると老境の域だったのではないかと思う。
華女 元禄時代の人々の平均寿命というのは何歳ぐらいだったのかしら。
句郎 江戸時代は身分制社会だったから農民や町人と武士とでは平均寿命が大きく違っていた。元禄時代は平和な時代であったから、武士の平均寿命は農民や町人よりはるかに長い。農民や町人の場合はかなり低かったのではないかと思う。私が調べた限りでいうと農民の平均寿命は25、6歳ぐらい、武士の場合は50歳前後ぐらいのようだ。
華女 芭蕉の身分は農民だったのよね。農民にしては51歳で亡くなった芭蕉は長生きした方なのね。
句郎 厳しい農作業を強制されることなく、芭蕉は俳諧師として生きたからかもしれない。公家や武士だけが人間として扱われる社会にあって、人間以下の人間であった芭蕉が51歳まで生きられたということは凄いことだと思う。
華女 疝気や痔の病を持って生きたということよね。芸は身を助くと、言うように芭蕉は俳諧という芸によって生き、死んだ人生だったのね。
句郎 芭蕉の止まった宿がどのような宿であったのか、分からない。勿論、敷きの部屋ではなかった。板の上に藁敷のような部屋に夜着に包まり、痛みに耐えていたのではないのかな。
華女 そうなのかもしれないわ。「祈りいだして」と詠んでいるわ。一晩中、お経を唱え、痛みに耐えていたのかもしれないわ。
句郎 寒さと腹の痛みが紡ぎだした句が「夜着ひとつ」の句だったのかもしれない。
華女 農民は耐える力が強いのよ。きっと芭蕉には農民の濃い血が流れていたのよ。
句郎 耐え抜いた気持ちが爆発したのが芭蕉の句だったのかもしれない。
華女 冬の夜、夜着一つ身にまとい、粗末な宿で一夜を明かしても、それが苦しかったと一言も言わない。凄いことね。
句郎 この句の異型の句を岩波文庫『芭蕉俳句集』は紹介してくれている。
「夜着ひとついのり出したる寒かな」。「夜着一つ祈り出したる旅ね哉」と二つの異型の句を紹介してくれている。華女さんは度の句が好きかな。
華女 漢字で書くか、平仮名で書くかと、いうことを芭蕉は考えぬいているということね。ここから俳句という文芸は書いたものを読者は読み鑑賞する文芸だということが分かるわ。
句郎 漢字で書くか、平仮名かと、いうこと読者の印象は違って感じるかもしれないないからな。
華女 私は「夜着ひとついのり出したる寒かな」が好きよ。夜明けとともにお腹の痛みが和らぎ、寒さが身に沁みてきたと、ほっとした芭蕉の気持ちが伝わってくるように感じるのよ。
句郎 お腹の痛みに苦しんでいるときには寒さを感じなかったということなのかな。
華女 「寒かな」の句には開放感があるように思う。

醸楽庵だより  996号  白井一道

2019-02-12 13:18:22 | 随筆・小説



   雪をまつ上戸(じょうご)の顔やいなびかり   芭蕉




句郎 元禄4年10月、芭蕉は近江を後にして江戸に向かった。三河、新城の菅沼権右衛門亭に芭蕉は招かれ、俳諧を楽しむ。権右衛門の俳号が耕月。この日、三河の門人たちが集まって俳諧と宴会を楽しんだ。この時の発句が亭主、耕月への挨拶吟だった。
華女 ゴルフ愛好家がプロゴルファーやゴルフレッスンプロを支えているのと同じね。囲碁や将棋の世界にもプロはアマチュアと対戦し、教授料を取っているわね。
句郎 俳諧の社会的存在の仕方というのは、今の俳句と基本的に変わることはないように思うな。
華女 現代の俳人といわれる人々は機関誌を発行し、同人から年間購読料を取り、生活を成り立たせているのじゃないのかしら。
句郎 俳諧師は一面商売人でもあったということなのかな。
華女 芭蕉は俳諧を生活の生業にできた人の一人だったのよね。
句郎 それは本当に厳しい道であったように思う。
華女 耕月亭に集まった人々の中には祝儀を持ってくる人もいたのかもしれないわ。お酒も楽しみながら俳諧をしたのでしょうから。
句郎 芭蕉は俳諧宗匠として謝金をいただいたんだろうね。「雪をまつ」という言葉は単に雪が降ってくるのを待って、雪見酒をしたいというだけの意味なのか、どうか、疑問を感じるんだ。
華女 来ると言ってまだ来ていない「雪」の付く名前を持った人がいたということなのかしら。
句郎 俳号「白雪」を持つ三河の同門の人がいたじゃない。
華女 白雪さんが見えたらお酒にしましょうと、いう了解が仲間内にあったと言うようなことかしら。
句郎 この句は季重なりの句のように思うけれども、そうではなくて雪を詠んでいる句だと思う。
華女 「いなびかり」は今では秋の季語よね。冬の稲光を芭蕉は詠んでいるのね。寒雷ね。
句郎 雷というと夏のものという印象があるが日本海側にあっては冬の雷が多く発生しているようだよ。
華女 「寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃」加藤楸邨の世界を300年も前に芭蕉は詠んでいるのね。
句郎 宴会を待つ男の顔に稲光だからね。
華女 酒を待つ男の顔を芭蕉は表現しているのよね。
句郎 酒を待つ望む男の気持ちを芭蕉は分かっていた。それは集まって門人全員の気持ちでもあった。酒を待つ全員の気持ちを詠んでいるのでこの句は発句になっているということだと思う。
華女 座を同じくする人々全員の気持ちがこの発句には詠まれているから発句なんだということなのね。
句郎 実際には稲光はなかったのかもしれない。座を同じくする者の顔に一瞬、気持ちが表れたことを持って、芭蕉はそれを稲光と表現したのかもしれない。
華女 三河の国で冬、稲光することはほとんどないのじゃないのかしら。
句郎 稲光を芭蕉は仲間の顔に見たように思ったのかもしれないな。実際、芭蕉は『おくのほそ道』の旅の途中、金沢あたりで冬の雷の恐ろしさを聞いていたのかもしれない。
華女 芭蕉は冬の雷を実際には経験していないということなのかしら。
句郎 そういうことも考えられるように思っただけなんだ。
華女 「雪をまつ上戸の顔やいなびかり」。分かるわ。一瞬暗くなった所に男の顔が浮かび上がってくるのよね。その顔は酒を欲しがっている顔なんでしょ。分かる気がするわ。
句郎 寒さを吹き飛ばしている男の顔かな。欲望が浮き上がっている顔かな。
華女 脂ぎった男の顔ね。見方によればセクシーでもあるし、また別の面から見ると怖いようにも思うわ。
句郎 稲光を怖がっている顔じゃないよ。
華女 そうね。待てと、言われている男の顔よ。力の籠った男の顔ね。

醸楽庵だより  995号  白井一道

2019-02-11 13:08:29 | 随筆・小説



 凩に匂ひやつけし歸花(かえりばな)   芭蕉



句郎 元禄4年10月、芭蕉は近江を後にして江戸に向かった。大垣で耕雪亭に招かれ、俳諧を楽しむ。この時の発句が亭主耕雪への挨拶吟だった。
華女 東海道を登る芭蕉の旅は俳諧の旅だったのね。
句郎 耕雪亭に招かれた芭蕉は帰り花が咲いていることに気が付いた。
華女 何の花だったのかしらね。
句郎 香り立つ花だったのじゃないかな。
華女 「凩に香」とはせずに「凩に匂ひ」と詠んだ所に芭蕉の手柄があるように感じるわ。
句郎 「凩」には「匂ひ」だよね。「匂ひ」でなければ俳句にはならないかな。
華女 「凩に匂ひをつけし」ではなく「凩に匂ひやつけし」と詠んだことによって俳句になっていると思うわ。
句郎 季重なりも気にならない句になっていると思う。
華女 これから俳諧を楽しみましょうという雰囲気をだしている句のように感じるわ。
句郎 座の気分を盛り上げる働きのある句が発句なんだと感じるな。
華女 俳句は発句の精神を継承するものでなければいい句ではないのかもしれないわ。
句郎 発句は座の仲間の気持ちを集中させるような働きがあるように感じるな。
華女 「凩に匂ひやつけし」と詠んでいることで気分が盛り上がるのよ。
句郎 当時は暖房があったわけじゃないだろうから、部屋は冷え冷えとしていた。庭には帰り花が咲いている。帰り花に温かさを芭蕉は見つけ、挨拶した。座の仲間の心に火を灯した。
華女 座の仲間に心の火を灯すのが発句なのよ。
句郎 国文学者の復本一郎氏が俳句は発句でなければ俳句ではないと言うようなことを述べている。発句と俳句、何がどう違うのかよく分からなかったが徐々に分かってきたようが気がする。
華女 発句になっていない俳句を何というのかしら。
句郎 復本一郎氏は平句と言っていた。俳諧、歌仙の場合、発句に続いて詠まれていく句を平句と言うんだ。
華女 発句とは、歌劇の序曲のようなものでなければいけないということね。
句郎 そう、序曲かな。ウイリアム・テル序曲は自立した曲として演奏されることがあるでしょ。序曲とは、もともと聴衆がまだざわめいている中で、聴衆の注意を引く目的を持って演奏されていた。だからおおむね劇全体の性格や粗筋を予告するような編成をもったものだった。そのような曲であった序曲が劇音楽から自立し、序曲として演奏されるようになったのがウイリアム・テル序曲だ。俳句は発句から生まれ、発句が自立し、俳句になったということなのかな。
華女 芭蕉の句の中に俳諧の発句から自立した俳句があるということなのね。
句郎 『おくのほそ道』の中の有名な句、「五月雨を集めて早し最上川」は立派な俳句になっている。文学としての俳句だと思う。この句も初めは俳諧の発句として詠まれていた。「五月雨を集めて涼し最上川」とね。山形県大石田、紅花で富を築いた一栄亭に招かれ、歌仙を巻いた。芭蕉は亭主、一栄氏に本日はこのような最上川の涼しい風の入るお屋敷にお招きいただきありがとうございましたと、挨拶した歌仙の発句が「五月雨を集めて涼し最上川」だった。この発句を場使用は推敲し、「五月雨を集めて早し最上川」とした。「涼し」は挨拶吟としての発句だが、「早し」は俳諧、歌仙から自立した俳句になった。
華女 芭蕉の句の中には俳句になり得ていない句もあるということかしらね。
句郎 もちろん、そうなんだろうと思うが、文学になり得ている俳句も多いのじゃないのかな。
華女 俳諧の発句と俳句の違いというものがうっすらとわかるような気もするわ。
句郎 そう簡単分かってもらっては困るという気持ちもあるな。

醸楽庵だより  994号  白井一道

2019-02-10 15:54:41 | 随筆・小説



   其(その)にほひ桃より白し水仙花   芭蕉


句郎 元禄4年10月、芭蕉は三河の国新城の庄屋、太田金左衛門(俳号、白雪)亭の俳諧に招かれ、詠んだ発句が「其にほひ」の句だった。
華女 匂いを色で表現しているのね。
句郎 水仙花を讃えてるのかな。
華女 何か、もっと意味がありそうな感じがするわ。
句郎 この句は挨拶句のようなんだ。太田亭に招かれ挨拶した句だからね。太田金左衛門には二人の息子がいたようなんだ。二人の息子に金左衛門は俳号を貰えないかと芭蕉に願った。芭蕉は長男には「桃先(とうせん)」、次男には「桃後(とうご)」と俳号を与えて、詠んだ句が「其なほひ」の句だった。
華女 俳号を与えるということが俳諧師の収入の一つになっていたのね。日本舞踊なんかでも師匠から名前をいただくとお金がかかるみたいよ。。
句郎 囲碁や将棋でも連盟からアマチュアが段位をいただくとお金が必要になるからな。
華女 俳句も芭蕉の時代から習い事のようなシステムができていたのかもしれないわね。
句郎 俳句は習い事なのか、それとも文学なのか、問題があるように感ずるな。
華女 華道や茶道、書道、剣道、柔道など習い事はいろいろたくさんあるわ。
句郎 華道や茶道、書道などは芸術であるのか、それとも習い事なのか、芸術と習い事とはつながっているようで切れている。海岸の波うち際のように海と陸とを区切る線はあるようでない。一本の線で区切ることはできないが、帯状になって切れている。
華女 スポーツとしての剣道と習い事としての剣道は違っているように思うわ。書道の場合も同じよ。芸術としての書道というものはあると思うわ。でも大半の人の書道は習い事としての限りなく習字に近い書道もあるように思うわ。
句郎 テレビ番組「プレバト」で行っている俳句は習い事としての俳句かな。俳句初心者が回を重ねることによって上手になっていく。上手になることによって文学の匂いが出てくる。文学作品になる俳句が詠まれる可能性はあるように感じるな。
華女 習い事としての俳句でもいいんじゃないかしら。強いて文学だなどと言う必要はないように思うわ。俳句を詠む楽しさがあれば、それていいのじゃないのかしらね。
句郎 所詮、俳諧は遊びだったからね。その遊びとしての俳諧を文学にまで高めたのが芭蕉だった。
華女 文学に域にまで達している句がある一方で文学にまで達していない句が芭蕉にもあるということなのよね。
句郎 「其にほひ桃より白し水仙花」。この芭蕉の句は商売の匂いのする句のように感じるな。今栄蔵校注『芭蕉句集』新潮日本古典集成の注によると「水仙花は二少年の穢れなき純心を祝いつつ、自らの号「桃青」の一字を詠み入れ「桃」の号を与えた。「桃」をへりくだって詠んでいる」とある。このように今栄蔵は書いている。俳諧師芭蕉には商売人としての一面を持っていたのではないかな。
華女 俳諧師とは、今の芸能人だったということなのね。現代の大衆作家が芸能人であるように芭蕉もまた今の芸能人のような存在であったということなのよね。
句郎 俳諧を楽しむ農民や町人がいた。武士の中にも俳諧を楽しむ人がいた。楽しいことは人びとの間に広がっていく。
華女 テレビの「プレバト」俳句、夏井いつきの添削には説得力があるのよね。納得してしまうもの。
句郎 きっと芭蕉の添削にも説得力があった。だから弟子がたくさん集まった。多くの弟子たちがいたから芭蕉の句は多くの人々に知られるようになっていった。
華女 芭蕉は孤高の俳人ではなく、俳諧を楽しむ人々の中で誰からも好かれる腰の低い俳諧師だったのね。
句郎 きっとね。

醸楽庵だより  993号  白井一道

2019-02-09 13:05:09 | 随筆・小説



  水仙や白き障子のとも移り   芭蕉



句郎 元禄4年10月中旬の頃、芭蕉は名古屋、熱田、梅人亭の俳諧に招かれ、詠んだ発句が「水仙や」の句だった。
華女 掃き清められた部屋の小さな床の間には白い水仙が活けられていたのね。
句郎 水仙が綺麗ですね。本日はこのようなお座敷に招かれありがとうございますと、芭蕉は亭主、梅人に挨拶をした句なのかな。
華女 白い障子にさす日の光の中に白い水仙の花が活けられているのよね。俳句とは即興的にその場のものを詠んで挨拶を交わすものが俳句なのね。
句郎 初めて出会った人とも俳諧を交わすことによって心の交流をすることができる。それが俳諧というものだった。
華女 人は人とおしゃべりをしたいのよね。女は特におしゃべりが好きなのよね。俳句とは女のおしゃべりのようなものなのね。
句郎 男もおしゃべりがしたい。だから一人で居酒屋に行く。見ず知らずの人とそこでおしゃべりを楽しむ。
華女 男も女もおしゃべりがしたいのよね。楽しいおしゃべりをしたいのよ。
句郎 江戸時代は身分制社会だったからおしゃべりを楽しむなんていうことはあり得なかった。特に男の世界ではね。
華女 男の世界では一人一人に上下の位がつけられていたんでしょ。そこでのおしゃべりは位の高い人が好き勝手なことを話し、周りの人々はただ聞くだけじゃないの。
句郎 だからそこにはおしゃべりを楽しむなんて何もなかった。位の上の人の自慢話を聞くだけだった。このようなおしゃべりからは俳句が生まれるはずがない。
華女 同じような自慢話を何回も聞かされるのは嫌になるだけね。母からよく聞かされたわ。祖母の同じ話を毎晩母は聞かされたと言っていたわ。祖母は母にとっては姑だったから。
句郎 おしゃべりが楽しめるのは友人同士の間だけだよね。対等に人間関係の間でしかおしゃべりを楽しむことなんてできないよね。
華女 対等な関係だから楽しめるのよ。互いに尊重し合う関係があって初めておしゃべりが楽しめるということよ。
句郎 商業が発達してくると人と人との関係が対等化するということがあるのではないかと思う。固定的な上下関係ではなくなってくる。積極的に人は人に働きかけていくようになる。人は人にものを買ってもらうために、人は人にものを売ってもらうために。商業の世界にあって、人は自分の地位に安住することができない。絶えず動きまわり、ものを買い、ものを売る。これが商業だ。
華女 絶えず見ず知らずの人と出会い、ものを売ったり買ったりするのが商売というものね。
句郎 俳諧を楽しむということは見ず知らずの人と交流するということ、共に笑い合うということなのかもしれない。商業の隆盛なしには俳諧の勃興は無かったのではないかと思うな。
華女 「水仙や白き障子のとも移り」と客が亭主に挨拶すると亭主が答えてくれるのよね。なんて答えたのかしらね。
句郎 亭主である梅人は「炭の火ばかり冬の饗応(もてなし)」と詠んだ。
華女 こんな寒い日のおもてなしは真っ赤に熾した炭火ばかりでどございます。この火鉢の暖でお許し下さいということね。
句郎 対話、おしゃべりの楽しみがこの句のやりとりにあるように思う。
華女 おしゃべりを書き言葉にしたのが俳諧というものだったのね。
句郎 亭主と客は同じ座敷に座る。ここに上下の関係はない。隣合うもの同士の関係である。上下の人間関係ではなく、対等な人間関係において初めて深い心の交流が実現した。人と人との深い人間関係の中から深い人間精神を詠む句が芭蕉の句の中に見られるようになった。

醸楽庵だより  992号  白井一道

2019-02-08 15:28:50 | 随筆・小説


 核廃絶は人類の課題


侘助 今から30年も前になるが、哲学者の柴田進午が述べていた。現代世界の課題は地球環境問題であるとね。
呑助 地球温暖化とか、そういうことですかね。
侘助 最大の課題は核問題だよ。核開発を直ちに止めることなしには世界の未来はないのではないかと言っていた。
呑助 核問題ですか。日本は広島、長崎、福島と各放射能による被害を受けている国ですからね。
侘助 柴田氏は法政大学から広島大学に転任し、広島に住むことによって核問題が自分自身の問題になったと述べていた。全世界の人々は核廃絶のために協力できるということを主張していた。
呑助 日本政府を初め、アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランスなど核開発を進めている国がありますね。
侘助 北朝鮮が核兵器開発と大陸間弾道弾の開発をしているようだしね。
呑助 冷戦が終わり、核戦争の恐怖は遠のいたように感じていたんですが、再びアメリカと中国、ロシアの間で核軍拡競争が始まるのではというような状況が出て来ていますね。
侘助 核戦争は人類の滅亡になるということをアメリカも中国、ロシアは分かり切っているのに止められない。互いに相手の国が信頼できないからなんじゃないのかな。
呑助 徹底的な不信感ですね。この不信感を乗り越えてソ連のゴルバチョフとアメリカのブッシュ(父)大統領は冷戦を終結させたのは凄いことだったんですね。
侘助 共産主義者も反共主義者も核兵器廃絶のためには協力した実績を残した。
呑助 アメリカにおける共産主義に対する不信感は強いようですね。
侘助 トランプ大統領の2019年の一般教書演説の中でもアメリカは共産主義に打ち勝ったと胸を張って演説していたからな。
呑助 資本主義は共産主義と共存することができないということなんでしょう。
侘助 冷戦終了後、ロシアでも中国でも社会主義的な政策を止めると資本主義社会になるのではないかと欧米諸国は考えていたがそうはならなかったということのようだ。
呑助 フランス共産党は大きな政党のようでしたが、冷静終了後、雲散霧消してしまったようですね。
侘助 世界的な社会主義運動にとってソ連共産党の誤りは大きな大きな汚点を残した。その一つがフランスやイタリアにおける共産党の解体があった。
呑助 いっとき、ユーロコミュニズムがマスコミを賑わしたことがありましたね。
侘助 20世紀は資本主義と社会主義とが戦った戦争と革命の世紀だったが21世紀は資本主義と社会主義とが協力し、人類の生存を保障する世紀になるのではないかと思う。
呑助 世界には20世紀から引き継いでいる資本主義と社会主義との対立があるが、この対立より厳しい対立が出て来たということなんですか。
侘助 そうなんだ。人類の存続をかけた対立だ。それは核の廃絶だ。自民党の石破茂さんは原子力発電をすることは、抑止力になると述べているからね。
呑助 原子力発電が核抑止力になるんですか。
侘助 少なくとも石破茂氏は原子力発電をしてプルトニウムを持つことはいつでも核兵器を作ることができるぞと、どこの国を敵だと見なしているのか分からないが脅していると言っている。
呑助 抑止力とは、脅しですか。
侘助 我が国はいつでも核兵器製造ができる国なんだぞと敵だと見なす国々を脅すことによって日本の安全が保障できるんだという考えを石破氏は持っている。
呑助 石破氏のような考えの人に対して核廃絶をしましょうということが21世紀の課題だと言うことなんですか。
侘助 石破氏と同じような考えの方たちは反共主義者に多いのかもしれない。その反共主義者と協力することなしには核廃絶は難しい。