宮応かつゆきの日本改革ブログ

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不破氏著「革命論研究」(下巻)つづき。「エンゲルス死後のドイツ社会民主党」=「決定的裏切りへ」

2016年04月08日 | 綱領関連

 エンゲルスは、1895年8月5日、その生涯を終えました。 (誕生日:1820年11月28日) エンゲルスが直接体験したドイツの選挙選は1893年が最後となりました。

 不破氏は、同書の215頁~219頁にかけて「(補論)エンゲルス死後のドイツ社会民主党」を掲載しています。

 「エンゲルスの死によって、それまでドイツの党に強く作用していた科学的社会主義の羅針盤が失われたことは、党に大きな影響をおよぼしました。 まず現れたのは、思想的な解体作用でした」

 として、コンラート・シュミット、ベルンシュタイン、ローザ・ルクセンブルクなどの哲学論、革命論、経済論、政治論などを指摘しています。

 「こうして、エンゲルスの死とともに、マルクス、エンゲルスが多年の努力を経てきずきあげてきた多数者革命論は、肝心のドイツに、まともにこれを受け継ごうとした潮流がないまま、事実上は棚上げの運命をたどることになってしまったのです」

 「党のこうした内部状況にもかかわらず、選挙戦での前進は続きました。 19世紀の末から20世紀初頭、第1次世界大戦にいたる時期の帝国議会選挙における、ドイツ社会民主党の得票と議席の推移は次のとおりです」

 「1893年 178万6700票 得票率 23・3%  44議席」

 「1898年 210万7100票 得票率 27・1%  56議席」

 「1903年 301万0800票 得票率 31・7%  81議席」

 「1907年 325万9000票 得票率 28・9%  43議席」

 「1912年 425万0400票 得票率 34・8% 110議席」

 「このように、有権者の3分の1以上の支持を得る帝国議会でもっとも強大な政党となったものの、社会主義政党として、その中身が空洞化していたというのが、1914年に第1次世界大戦を迎えたときのドイツ社会民主党の実態でした。 この党を中核としていた第2インターナショナルの崩壊は、まさに起こるべくして起こったものだったのです」

 「それにつづいたのが、1918年、ドイツ革命が勃発したときの、ドイツ社会民主党の裏切りでした。 1918年11月、打ち続く敗戦のなかで、ドイツに革命が勃発しました。 革命の火蓋をきったのは、11月3日、キール軍港における水兵の反乱でした。 この反乱は、キールに誕生した労働者・兵士評議会の組織とともに数日でドイツ全土に波及し、11月7日には、首都ベルリンでも労働者・兵士が決起し、彼らが組織した評議会を基礎に、8日、共和制の宣言、9日、2つの社会委主義政党による政府の結成と、事態は革命の全国的勝利へと急進展しました」

 「エンゲルが予見した『軍国主義の崩壊の弁証法』がその予言どおりに発動したのです。 ところが、共和制宣言が発せられた11月8日夜、翌日、革命政府の首相に就任することが予定されていた社会民主党の党首エーべルトは、ドイツ軍最高司令部の責任者であるグレーナー参謀次長と秘密の電話回線を通じて連絡を取り合い、社会民主党政府とドイツ軍部のあいだで、革命鎮圧のための同盟を結んだのです」

 「これは、大戦勃発のさいの帝国主義戦争支持の決定に続く決定的な裏切りでした」