エンゲルスの多数者革命の結論ー「多数者自身が目的を理解してこそ社会変革の道が』開かれる」 goo.gl/zIchox
引き続き、不破氏のエンゲルスの多数者革命論について、考えてみたいと思います。
同氏の、「古典教室」第3巻「エンゲルス 『フランスにおける階級闘争』(マルクス)への序文」(2013年11月10日 初版)には次のようなエンゲルスの文章が掲載され、また、同氏の解説が記述されています。(同書80~81頁)
エンゲルスの言葉「国民間の戦争の条件も変化したが、それに劣らず階級闘争の諸条件も変化した。 奇襲の時代、無自覚な大衆の先頭にたった自覚した少数者が遂行した革命の時代は過ぎ去った」
「社会組織の完全は改造ということになれば、大衆自身がそれに参加し、彼ら自身が、なにが問題になっているか、なんのために彼らは(肉体と生命をささげて)行動するのかを、すでに理解していなければならない。 このことをこそ、最近50年の歴史がわれわれにお教えてくれたのだ」
「大衆がなにをなすべきかを理解するためーーそのためには、長いあいだの根気強い仕事が必要である。 そして、この仕事をこそまさにいまわれわれがおこなっており、しかも敵を絶望におとしいれるところの成功をおさめつつあるのだ」
不破氏は次ぎのように、解説しています。
「少数者の革命の時代は終わり、多数者の革命の時代を迎えた。 多数者がほんとうに自覚して、革命の目標を自分のものとして理解してこそ、革命の勝利はある。 それをいかにして準備するかということが革命家の仕事なんだ。 革命家の仕事だということは、これは党の仕事だということです」
「ここに、マルクスとエンゲルスが1848年の革命の時代から60年代、70年代の経済と政治の大変化の時代、そしてインターナショナルやドイツの労働者党の経験を経て、最後に到達し総括した革命論の結論があります」
不破氏は「マルクス、エンゲルス 革命論研究」上(2010年1月)・下(2010年2月)刊行しています。
同書下巻173頁には、「2 議会の多数を得ての革命ー1878年のマルクスの定式」が記載されています。
「民主主義の政治体制を実現したところで、人民の多数者を結集したら、労働者階級が選挙での多数を得て政権をにぎることができるーーこれは、マルクス、エンゲルスが、共産主義の革命家として活動を始めた最初の時期から追及しつづけた路線でした。 当時は、そういう政治体制をもった国はヨーロッパには存在せず、将来形で語ることができただけでしたが、70~80年代(1800年代)には、各国の情勢もかなりの変化をとげてきました」
「イギリスでは、立憲君主制のもとで、議会はかなり大きな権限をもつようになっていましたが、議会への選挙権がきびしく制限され、地主貴族の寡頭政治が続いてきました。 しかし、1867年の第2次選挙法改正で、都市の労働者階級の大部分が選挙権を得、84年の第3次改正では選挙権が農村の労働者の大部分に広がるなど、選挙制度の改革が一歩一歩進みました」
「ドイツは、すでに詳しくみたように、67年に北ドイツ連邦に普通選挙権が採用され、労働者党の議員が活躍するヨーロッパで最初の議会を生みだし、71年のドイツ帝国成立でそれが全ドイツに広がりました。 こうして、ドイツは、労働者階級が普通選挙権を『解放の道具』として、活用した最初の国となり、国際的な社会主義運動のなかで文字通り開拓者的な役割を果たしましたが、その議会は、きわめて小さい権限しか与えられていない君主制の付属物で、政治体制としたは最も遅れた状態にとどまりました」
「こうして、70年代以降のヨーロッパは、40年代とは違って、政治体制の性格の違いが、革命運動の前途を考える上で、特別の意義を持つ段階を迎えていたのです」
―中略ー
「マルクスはここで、『議会の多数を得ての革命』という展望のある国として、イギリスと合衆国をあげています。 イギリスは共和制ではなく立憲君主制の国であり、まだ普通選挙権が実現されていない国です。 アメリカは世界で最初に民主共和制を実現した国でしたが、それを活用する労働者党はまだ存在していない政治状況の国でした」
「しかし、マルクスは、この2つの国を、労働者が議会で多数を占めれば、社会変革を合法的な道で実行できる可能性のある典型的な国としてあげたのです。 それぞれの国の政治体制および運動の将来的発展を考慮にいれてのことだったと思います」
日本共産党綱領(第23回党大会 2004年1月17日採択)は、第2章「現在の日本社会の特質」で、「(4)第2次世界大戦後の日本社会ではいくつかの大きな変化が起こった」として、次ぎの3点を指摘しています。
「第1は、日本が、独立国としての地位を失い、アメリカへの事実上の従属国の立場になったことである」(詳細は略)
「第2は、日本の政治制度における、天皇絶対の専制政治から、主権在民を原則とする民主政治への変化である。 この変化を代表したのは、1947年に施行された日本国憲法である。 この憲法は、主権在民、戦争の放棄、国民の基本的人権、国権の最高機関としての国会の地位、地方自治など、民主政治の柱となる一連の民主的平和的な条項を定めた。 形を変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残したものだったが、そこでも、天皇は『国政に関する権能を有しない』ことなどの制限条項が明記された」
「この変化によって、日本の政治史上はじめて、国民の多数の意思にもとづき、国会を通じて、社会の進歩と変革を進めるという道すじが、制度面で準備されることになった」(第2項は全文)
「第3は、戦前、天皇制の専制政治とともに、日本社会の半封建的な性格の根深い根源となっていた半封建的な地主制度が、農地改革によって、基本的に解体されたことである」(詳細は略)
”国民多数の意思を国会を通じて、社会進歩と変革を進める道すじが、「憲法上の制度」として「準備」された”という認識は大変刺激的であり、おおいに探究が求められ分野であると感じています。 そして、憲法上のこの「制度」を制限したり、破壊するいかなる企ても許さない、国民的たたかいが求められていると思います。
戦前の日本共産党の活動は、こうした民主主義の政治体制ー「制度をつくる」たたかいであったと言っていいと思います。
同綱領は、第1章、「戦前の日本社会と日本共産党」の最後の部分で、「日本政府はポツダム宣言を受諾した。 反ファシズム連合国によるこの宣言は、軍国主義の除去と民主主義の確立を基本的な内容としたもので、日本の国民が進むべき道は、平和で民主的な日本の実現にこそあることを示した」
「これは、党が不屈に掲げてきた方針が基本的に正しかったことを証明したものであった」