写楽を題材にした小説も他の著明人物と同様に結構ある。作家の想像力を刺激するのだろう。写楽に関心を寄せているが、目にとまったら読み継ぐというペースでいろいろな切り口での写楽像を楽しんでいる。
著者の本を今まで読んだことがない。この本が初めてである。2009年7月にこの本が出版されていたのを知らなかった。「寂しい」という形容詞が注意を引いた。本書の写楽の扱い方は面白い。
写楽の役者絵が耕書堂蔦屋から板行された経緯を扱っている。面白いのは、写楽絵誕生に合作説を採っている点だ。それも興味深い人物達が蔦屋重三郎に様々な関わりをもち、結果的に一つの協力関係を結んで、役者絵の板行を助けたという見方である。変動的で緩やか、かつ分担的なつながりとして描かれている。
写楽絵は、東洲斎写楽こと斎藤十郎兵衛が描いた首絵を使い、役者の構図を決めて、背景も分担して板刷りの原画が作成されたとする。
誰が協力することになったのか。伝蔵、鉄蔵、幾五郎たちである。
伝蔵とは山東京伝。戯作者である。
鉄蔵は春朗先生とも呼ばれていた。勝川派から破門された浮世絵師だ。後の葛飾北斎である。
幾五郎は上方では近松与七の名で浄瑠璃の『木下蔭狭間合戦』の合作をしたりしたが、江戸に出て来て、黄表紙と滑稽本作家として己の道をめざしていく。後の十返舎一九である。
現在の私たちの知っていることからみれば、錚錚たるメンバーである。だが、山東京伝を除いて、鉄蔵も幾五郎も無名時代だったといえる。さらに言えば、斎藤十郎兵衛自体が実在かどうか、曖昧さを含みながら本書に登場する。そんな連中が重三郎の意図の下で、写楽の役者絵誕生プロセスに関わったとするのだ。東洲斎写楽という名で役者絵がほんの一時期、打ち上げ花火の如くに、瞬間だけ出現することになった。それは何故か。著者の解釈がちょっと面白い。
そのプロセスを描きながら、実は京伝、鉄蔵、幾五郎、さらには蔦屋重三郎その人を描こうとしている。その時期に、山東京伝がどういう状態だったか。後の葛飾北斎、十返舎一九が己の生きる道を発見するために、苦しみながらどのように模索していたのか。重三郎自体がどういう生き様をした人か。
さらに板元としての重三郎がある意味スポンサーとして支援してきた歌麿、倉蔵(後の滝沢馬琴)や、直次(大田南畝)の生き方が、重三郎を軸にした関わりの中で描き込まれていく。
伝蔵の書いた洒落本3冊が老中松平定信の行った寛政の改革に触れる。そして伝蔵は手鎖50日の刑を受け、板元の耕書堂蔦屋は身上半減、闕所の沙汰を受ける。通油町の店がまさにまっ二つに半分打ち壊されてしまうのだ。だが、重三郎は浩然と振る舞っている。この沙汰が出る頃には、歌麿は蔦屋とは袂を分かち、他の板元に移っていき、蔦屋の番頭をしていた倉蔵(馬琴)はその勤めを辞して、飯田町の下駄屋に入夫し、戯作ひと筋で行くと決める。黄表紙や読本の作者として歩み始めるのだ。重三郎とは板元と作者の関係に変化して行く。
蔦屋の板元としての仕事が下降線にある。本を出したくても戯作者がいない。京伝と馬琴しかいない状態であり、京伝は筆が遅いのだという。そんな状況下で、写楽の絵を売り出そうと重三郎は構想する。
板元としての商売を役者絵の分野に広げることと、蔦屋から去って行った歌麿への対抗意識でもある。上方の並木五瓶という立作者が江戸に下り、芝居を打つという計画があり、紀の国屋(沢村宗十郎)が全面的に応援するというのだ。紀の国屋を引き立てるような役者絵を出そうということなのだ。江戸の人を驚かせることができるような役者絵を出したいという。歌麿の開拓した大首絵の趣向を利用し、男の意地をかけて出したいという。それが写楽の絵なのだった。
重三郎は京伝に相談を持ちかけ、京伝のアイデアで鉄蔵(春朗)を巻き込み、さらに幾五郎にも絵心があることで、この企画に加わっていくということになる。それぞれの関わって行く経緯が、また本書のおもしろい読ませどころでもあるだろう。
役者絵売り出しの相談を持ちかけられた京伝は、重三郎に入銀(出資金)絵になるのかどうか質問する。重三郎は心配無用と取り繕う。この新企画、それなりのまとまった資金が必要だったろう。身上半減の沙汰を受けた後の重三郎は、実際のところどこから資金繰りをしたのだろうか。入銀絵だったのか? 興味の残るところだ。
写楽の絵の最初の板行は大判黒雲母摺りの役者絵二十八枚となった。鉄蔵に問われた摺師甲子蔵は言う。玄人受けする絵だと思うが、芝居好きの客が喜んで買うかどうかは何とも言えないと。曾我祭りの5月27日が写楽開板となる。店先に並んだ大判黒雲母摺りの役者絵に対する客の反応は微妙だった。否定的な意見が多かったようだ。役者連中には怒りを露わにした者もいたようだ。
様々な批評に拘わらず、写楽板行は続けられることになる。大判の数は控え、役者の立ち姿を描く細判(ささめばん)を増やしていく。大判は金の掛かる黒雲母摺りから白雲母摺りと黄つぶしで背景を調える形に切り換えていく。
伝蔵(京伝)と鉄蔵は、ついに斎藤十郎兵衛の顔を見ることもなかった。重三郎が店を留守にしているときに、幾五郎が斎藤十郎兵衛が訪ねてきたのに応対したとして、著者はそのシーンを描いている。
そして、こんな鉄蔵と伝蔵の会話シーンが挿入されている。
「ちょいとこのう、張り見世の妓の姿を写しておりやした。まずい絵ばかりやっていると寂しくなりやしてね」
「つまらないとは言わず、寂しいってか・・・・鉄蔵さんらしいもの言いだ。それで、蔦屋はまだ写楽を続けるつもりかい」
「旦那はやめるとは言いやせん。全く意地の強い人だ」
著者は幾五郎におもしろい絵解きをさせている。斎藤十郎兵衛、斎藤を引っ繰り返せば、とうさいとなり、その間に十郎兵衛の十を入れると、紛れもなく東州斎ともなろうと。(p148)また、斎藤十郎兵衛本人に、「見る者の背中をざわざわと粟立たせるような寂しい絵でした」と言わせている。
写楽の役者絵に対する現代の評価と当時の評価はかなり開きがあったのではないか。
著者は、大田南畝が重三郎に語る言葉としてこう書く。
「あまりにも真に迫っておりました。役者絵は贔屓を喜ばせてこそ役者絵でござる。そこには、いささかの嘘があってもよろしいのではないかと思いますよ。役者の素の顔など、贔屓は誰も望んではいないはずだ。写楽は、そこのところを考えていなかった。本当の絵師ではないと思いました」”本当の絵師”って、何だろうか? おもしろい課題でもある。
そして、地の文でこうも付け加えている。:芝居町を騒がせていた絵は、しかし、すでにお蔵入りだという。芝居役者を誹謗する絵は、もう江戸に出回らない。蝦蔵はきっと喜ぶだろう。自分のことより他の役者達のことを考える蝦蔵は、やはり千両役者の名に恥じない人徳も備えていると思った。
最後に、こんな印象深い言葉が記されている。本書のテーマとも関係する。
*先のことなんざ、誰にもわかりゃしねェよ。わかっているのは、今の今だけよ。写楽絵をやって、少しはそれがわかったはずだとおもうが。 p212 ← 北斎の言として
*寂しい人間ばかりの寄せ集めだった。おっと、この場合の寂しいは、つまらねェという意味じゃないよ。・・・だからな、すんなり写楽に手を貸すことができたのよ。大判雲母摺りと、見かけは豪華だが、どうしてどうして、中身は背筋が寒くなるような心地がしたわな。あれを寂しいと言わずに何と言う。 p214
← この文中、北斎が幾五郎に語るニュアンスを本書で味わってほしい。
*食客を手放した後に臍をかむ事態になるのは、歌麿だけでたくさんだった。だから馬琴が飯田町へ入夫した時も、縁を切るようなことはしなかった。いつか馬琴の才が開化することを心底信じていたからだ。あの男は書ける。そして時節は読本の流れになっているはずだ。それなのに、このていたらく。
京伝の洒落本で咎めを受け、写楽で躓き、馬琴の読本でとどめを刺された。何かが、どこかが微妙にずれていたのだろう。すべて自分の蒔いた種とはいえ、重三郎は悔しかった。
→ 蔦屋重三郎は、時代の数歩先を一人突っ走ろうとした起業家だったのか。
単にうぬぼれと思い込みの強い事業家だったのだろうか。その軌跡が本書に色濃く書き込まれていて、重三郎その人に関心を深めさせる。
京伝は『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』『錦の裏』『仕懸(しかけ)文庫』の三冊が寛政の改革に触れた。1791年。
写楽絵は、寛政6年(1794)から翌年にかけ、忽然として現れて消えた。
馬琴の読本『高尾舩(せん)字文』(1796年板行)は江戸で300ほど売れただけで失敗。重三郎の起死回生の妙薬にはならなかった。
現在、京伝の洒落本など、文学研究者以外はほとんど関心がないだろう。
写楽の再評価は、西欧から始まった。独人ユリウス・クルトの『写楽』(1910年公刊)から始まる。写楽が誰か? 50人余の人が様々な説を述べている。
滝沢馬琴の「椿説弓張月」の板行が1805年。「南総里見八犬伝」が1814年である。
蔦屋重三郎が息を引き取ったのは寛政9年(1797)5月。享年48歳。
本書に登場する幾五郎つまり、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の板行は明和2年(1802)。これが大当たりとなる。
ご一読、ありがとうございます。
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いくつかの語句を検索してみた。その一覧をまとめておきたい。
蔦屋重三郎 :ウィキペディア
山東京伝 :ウィキペディア
山東京伝 :「京都大学電子図書館」
初代 並木五瓶 :「文化デジタルライブラリー」
大田南畝 :ウィキペディア
大田南畝 依田学海 :「日本漢文の世界」
「吉原細見」 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)
猪牙船(ちょきぶね) :新吉原図鑑
猪牙舟(ちょきぶね) :「わくわく挿絵帖」
葛飾北斎 :ウィキペディア
十返舎一九 :ウィキペディア
東洲斎写楽 :ウィキペディア
写楽:役者絵
特別展「写楽」 文化庁月報 平成23年4月号(No.511) :「文化庁」
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著者の本を今まで読んだことがない。この本が初めてである。2009年7月にこの本が出版されていたのを知らなかった。「寂しい」という形容詞が注意を引いた。本書の写楽の扱い方は面白い。
写楽の役者絵が耕書堂蔦屋から板行された経緯を扱っている。面白いのは、写楽絵誕生に合作説を採っている点だ。それも興味深い人物達が蔦屋重三郎に様々な関わりをもち、結果的に一つの協力関係を結んで、役者絵の板行を助けたという見方である。変動的で緩やか、かつ分担的なつながりとして描かれている。
写楽絵は、東洲斎写楽こと斎藤十郎兵衛が描いた首絵を使い、役者の構図を決めて、背景も分担して板刷りの原画が作成されたとする。
誰が協力することになったのか。伝蔵、鉄蔵、幾五郎たちである。
伝蔵とは山東京伝。戯作者である。
鉄蔵は春朗先生とも呼ばれていた。勝川派から破門された浮世絵師だ。後の葛飾北斎である。
幾五郎は上方では近松与七の名で浄瑠璃の『木下蔭狭間合戦』の合作をしたりしたが、江戸に出て来て、黄表紙と滑稽本作家として己の道をめざしていく。後の十返舎一九である。
現在の私たちの知っていることからみれば、錚錚たるメンバーである。だが、山東京伝を除いて、鉄蔵も幾五郎も無名時代だったといえる。さらに言えば、斎藤十郎兵衛自体が実在かどうか、曖昧さを含みながら本書に登場する。そんな連中が重三郎の意図の下で、写楽の役者絵誕生プロセスに関わったとするのだ。東洲斎写楽という名で役者絵がほんの一時期、打ち上げ花火の如くに、瞬間だけ出現することになった。それは何故か。著者の解釈がちょっと面白い。
そのプロセスを描きながら、実は京伝、鉄蔵、幾五郎、さらには蔦屋重三郎その人を描こうとしている。その時期に、山東京伝がどういう状態だったか。後の葛飾北斎、十返舎一九が己の生きる道を発見するために、苦しみながらどのように模索していたのか。重三郎自体がどういう生き様をした人か。
さらに板元としての重三郎がある意味スポンサーとして支援してきた歌麿、倉蔵(後の滝沢馬琴)や、直次(大田南畝)の生き方が、重三郎を軸にした関わりの中で描き込まれていく。
伝蔵の書いた洒落本3冊が老中松平定信の行った寛政の改革に触れる。そして伝蔵は手鎖50日の刑を受け、板元の耕書堂蔦屋は身上半減、闕所の沙汰を受ける。通油町の店がまさにまっ二つに半分打ち壊されてしまうのだ。だが、重三郎は浩然と振る舞っている。この沙汰が出る頃には、歌麿は蔦屋とは袂を分かち、他の板元に移っていき、蔦屋の番頭をしていた倉蔵(馬琴)はその勤めを辞して、飯田町の下駄屋に入夫し、戯作ひと筋で行くと決める。黄表紙や読本の作者として歩み始めるのだ。重三郎とは板元と作者の関係に変化して行く。
蔦屋の板元としての仕事が下降線にある。本を出したくても戯作者がいない。京伝と馬琴しかいない状態であり、京伝は筆が遅いのだという。そんな状況下で、写楽の絵を売り出そうと重三郎は構想する。
板元としての商売を役者絵の分野に広げることと、蔦屋から去って行った歌麿への対抗意識でもある。上方の並木五瓶という立作者が江戸に下り、芝居を打つという計画があり、紀の国屋(沢村宗十郎)が全面的に応援するというのだ。紀の国屋を引き立てるような役者絵を出そうということなのだ。江戸の人を驚かせることができるような役者絵を出したいという。歌麿の開拓した大首絵の趣向を利用し、男の意地をかけて出したいという。それが写楽の絵なのだった。
重三郎は京伝に相談を持ちかけ、京伝のアイデアで鉄蔵(春朗)を巻き込み、さらに幾五郎にも絵心があることで、この企画に加わっていくということになる。それぞれの関わって行く経緯が、また本書のおもしろい読ませどころでもあるだろう。
役者絵売り出しの相談を持ちかけられた京伝は、重三郎に入銀(出資金)絵になるのかどうか質問する。重三郎は心配無用と取り繕う。この新企画、それなりのまとまった資金が必要だったろう。身上半減の沙汰を受けた後の重三郎は、実際のところどこから資金繰りをしたのだろうか。入銀絵だったのか? 興味の残るところだ。
写楽の絵の最初の板行は大判黒雲母摺りの役者絵二十八枚となった。鉄蔵に問われた摺師甲子蔵は言う。玄人受けする絵だと思うが、芝居好きの客が喜んで買うかどうかは何とも言えないと。曾我祭りの5月27日が写楽開板となる。店先に並んだ大判黒雲母摺りの役者絵に対する客の反応は微妙だった。否定的な意見が多かったようだ。役者連中には怒りを露わにした者もいたようだ。
様々な批評に拘わらず、写楽板行は続けられることになる。大判の数は控え、役者の立ち姿を描く細判(ささめばん)を増やしていく。大判は金の掛かる黒雲母摺りから白雲母摺りと黄つぶしで背景を調える形に切り換えていく。
伝蔵(京伝)と鉄蔵は、ついに斎藤十郎兵衛の顔を見ることもなかった。重三郎が店を留守にしているときに、幾五郎が斎藤十郎兵衛が訪ねてきたのに応対したとして、著者はそのシーンを描いている。
そして、こんな鉄蔵と伝蔵の会話シーンが挿入されている。
「ちょいとこのう、張り見世の妓の姿を写しておりやした。まずい絵ばかりやっていると寂しくなりやしてね」
「つまらないとは言わず、寂しいってか・・・・鉄蔵さんらしいもの言いだ。それで、蔦屋はまだ写楽を続けるつもりかい」
「旦那はやめるとは言いやせん。全く意地の強い人だ」
著者は幾五郎におもしろい絵解きをさせている。斎藤十郎兵衛、斎藤を引っ繰り返せば、とうさいとなり、その間に十郎兵衛の十を入れると、紛れもなく東州斎ともなろうと。(p148)また、斎藤十郎兵衛本人に、「見る者の背中をざわざわと粟立たせるような寂しい絵でした」と言わせている。
写楽の役者絵に対する現代の評価と当時の評価はかなり開きがあったのではないか。
著者は、大田南畝が重三郎に語る言葉としてこう書く。
「あまりにも真に迫っておりました。役者絵は贔屓を喜ばせてこそ役者絵でござる。そこには、いささかの嘘があってもよろしいのではないかと思いますよ。役者の素の顔など、贔屓は誰も望んではいないはずだ。写楽は、そこのところを考えていなかった。本当の絵師ではないと思いました」”本当の絵師”って、何だろうか? おもしろい課題でもある。
そして、地の文でこうも付け加えている。:芝居町を騒がせていた絵は、しかし、すでにお蔵入りだという。芝居役者を誹謗する絵は、もう江戸に出回らない。蝦蔵はきっと喜ぶだろう。自分のことより他の役者達のことを考える蝦蔵は、やはり千両役者の名に恥じない人徳も備えていると思った。
最後に、こんな印象深い言葉が記されている。本書のテーマとも関係する。
*先のことなんざ、誰にもわかりゃしねェよ。わかっているのは、今の今だけよ。写楽絵をやって、少しはそれがわかったはずだとおもうが。 p212 ← 北斎の言として
*寂しい人間ばかりの寄せ集めだった。おっと、この場合の寂しいは、つまらねェという意味じゃないよ。・・・だからな、すんなり写楽に手を貸すことができたのよ。大判雲母摺りと、見かけは豪華だが、どうしてどうして、中身は背筋が寒くなるような心地がしたわな。あれを寂しいと言わずに何と言う。 p214
← この文中、北斎が幾五郎に語るニュアンスを本書で味わってほしい。
*食客を手放した後に臍をかむ事態になるのは、歌麿だけでたくさんだった。だから馬琴が飯田町へ入夫した時も、縁を切るようなことはしなかった。いつか馬琴の才が開化することを心底信じていたからだ。あの男は書ける。そして時節は読本の流れになっているはずだ。それなのに、このていたらく。
京伝の洒落本で咎めを受け、写楽で躓き、馬琴の読本でとどめを刺された。何かが、どこかが微妙にずれていたのだろう。すべて自分の蒔いた種とはいえ、重三郎は悔しかった。
→ 蔦屋重三郎は、時代の数歩先を一人突っ走ろうとした起業家だったのか。
単にうぬぼれと思い込みの強い事業家だったのだろうか。その軌跡が本書に色濃く書き込まれていて、重三郎その人に関心を深めさせる。
京伝は『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』『錦の裏』『仕懸(しかけ)文庫』の三冊が寛政の改革に触れた。1791年。
写楽絵は、寛政6年(1794)から翌年にかけ、忽然として現れて消えた。
馬琴の読本『高尾舩(せん)字文』(1796年板行)は江戸で300ほど売れただけで失敗。重三郎の起死回生の妙薬にはならなかった。
現在、京伝の洒落本など、文学研究者以外はほとんど関心がないだろう。
写楽の再評価は、西欧から始まった。独人ユリウス・クルトの『写楽』(1910年公刊)から始まる。写楽が誰か? 50人余の人が様々な説を述べている。
滝沢馬琴の「椿説弓張月」の板行が1805年。「南総里見八犬伝」が1814年である。
蔦屋重三郎が息を引き取ったのは寛政9年(1797)5月。享年48歳。
本書に登場する幾五郎つまり、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の板行は明和2年(1802)。これが大当たりとなる。
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蔦屋重三郎 :ウィキペディア
山東京伝 :ウィキペディア
山東京伝 :「京都大学電子図書館」
初代 並木五瓶 :「文化デジタルライブラリー」
大田南畝 :ウィキペディア
大田南畝 依田学海 :「日本漢文の世界」
「吉原細見」 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)
猪牙船(ちょきぶね) :新吉原図鑑
猪牙舟(ちょきぶね) :「わくわく挿絵帖」
葛飾北斎 :ウィキペディア
十返舎一九 :ウィキペディア
東洲斎写楽 :ウィキペディア
写楽:役者絵
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